玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ハーマン・メルヴィル『乙女たちの地獄』(6)

2015年07月11日 | ゴシック論

 最後に『乙女たちの地獄』の巻頭に掲載されている「バートルビー」という作品に触れておきたいと思う。この作品にはゴシック的な要素はあまりないが、ホルヘ・ルイス・ボルヘスがこの作品について「カフカの先駆」ということを言っているからである(『バベルの図書館』の「バートルビー」序文)。それほどに注目すべき作品であるということだ。
 ウォール街に勤務する老弁護士である「私」が、彼の事務所で雇ったバートルビーという青年の奇行について語っていくという作品である。このバートルビーがとんでもない青年で、筆耕人として雇われているのに、書類の読み合わせを命じられると、「その気になれないのですが」I would prefer not to.と答えるのみ、自分の席から動こうともしない。
 何を命じられても「その気になれないのですが」としか答えないバートルビーは、どうも事務所に居座り続けているらしい。解雇を言い渡しても彼は事務所を出て行こうとしない。しまいには「ここを出て行くつもりはあるのかね」と言われても、「ここを出て行く気にはなれないのですが」と答える始末。
 ついに「私」はバートルビーを置き去りにしたまま、事務所を引っ越すことになる。もとの事務所に居抜きで残ったバートルビーはそこでも同じことをくり返し、ついに警察に逮捕され、刑務所に収監される。そこで彼は食べ物を食べることもなく、飢え死にして果てるのである。
「私」は時にバートルビーに腹を立てるが、憎みきれないものがある。「私」はバートルビーに優しい気持ちを寄せ、過分の退職金を与えたり、彼の行く末を気遣ったりもする。最後は刑務所の中での彼の死を見届けるのである。そうした経緯が軽いユーモアを込めて語られていく。
 ボルヘスはこの作品をカフカの小説の不条理性の先駆と位置づけているようである。カフカの作品には単に不条理というのではなくて、ユーモアもあるし、その点でもよく似ているとは言いうるかも知れない。
 ただし、カフカの作品にもっとも特徴的なのはそれが"夢"のもっている文法に従って書かれていることであって、その不条理性は夢というものがもともともっている不条理性であるのに他ならない。
 メルヴィルの「バートルビー」には夢の要素はまったくない。なぜバートルビーという青年はあれほどに無気力で絶望的な人間になってしまったのか? その答えは最後の部分に書かれている。
 バートルビーはワシントンの郵便局内の「配達不能便課(デッド・レター・オフィス)」で働いていて、局の都合で突然解雇されたらしい。バートルビーは「死文(デッド・レターズ)」を扱う仕事をしていたのだ。「私」は噂を耳にして「筆舌に尽くしがたい感慨」にとらわれる。そして次のように言うのである。
「「死文」とは! まるで死人のような響きではないか? 生まれながらの資質と、その後の不運のために、とかく蒼ざめた絶望へと陥りがちな人間のことを想像してみるがよい。そうして死んだ手紙を不断に取り扱い、それを焼き捨てるために選り分けを行なう人間ほど、そうした蒼ざめた絶望を深めるのにふさわしいものがあろうか?」
「私」は郵便局のシステムの不条理性を指摘しているのである。そのような不条理がバートルビーのような人間を生むのだと。
 もしカフカの小説を"現代の不条理"というような文脈でだけ読むならば、ボルヘスの言っていることは当たっているのかもしれないが……。
(この項おわり)

J・L・ボルヘス編集『新編バベルの図書館』1.アメリカ編(2012、国書刊行会)


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