視点という方法についてもう少し述べるならば、ヘンリー・ジェイムズの小説は視点の方法に貫かれているが、視点人物を一人に限定した作品と、視点人物を複数に設定してそれを切り替えていく作品との二通りがあることを、言っておかなければならない。
ジェイムズの作品には『ロデリック・ハドソン』や『聖なる泉』『使者たち』など、視点を主人公か副主人公に設定し、唯一の視点から小説を展開していく作品と、後期の『鳩の翼』と『金色の盃』のように、複数の視点人物が登場し、その切り替えの中から新たなドラマを創出していく作品があるのだ。
これを執筆順に見ると、後期三部作の最初の作品である『使者たち』までは、すべて単一の視点に立った作品であり、複数の視点人物を登場させる作品は、最後の二作『鳩の翼』と『金色の盃』に」限定されていることが分かる。
ジェイムズ本人は生涯に二十編以上もある自身の長編の中で、『ある貴婦人の肖像』と『使者たち』をもっとも高く評価しているが、前者もまたイザベル・アーチャーただ一人の視点に立って書かれた作品である。私はジェイムズ本人とは違って、『ある貴婦人の肖像』高く評価するが、『使者たち』の方は後期三部作の中でもっとも高く評価するというわけにはいかない。
私がジェイムズの長編の中で最高傑作と考えるのは、やはり『金色の盃』であり、『鳩の翼』である。それはこの二作においては複数の視点人物が設定され、視点の切り替えの中でさらなる緊張感を生み出しているからであり、そこで初めて〝他者〟といものが露出してくるからだと思う。
ジェイムズは人間と人間の間の心理の相剋を克明に描くことによって、取り立ててドラマティックな展開があるわけでもない彼の小説に、現実にはあり得ないほどの途方もない緊張感をもたらすことができた。それは『ある貴婦人の肖像』の場合のように、作者自身とは似ても似つかぬ主人公の視点を設定した場合にも可能ではあったが、複数の視点人物による方がそれはより確実なものとなる。
『鳩の翼』におけるケイト・クロイとマートン・デンシャー、『金色の盃』におけるマギー・ヴァーヴァーとアメリーゴ公爵の間の相克は、それぞれ男女の視点を持ったからこそ描き切れたのだということができる。本質的に人間と人間の間の心理的闘争を描くならば、やはり複数の視点が要請されるのだし、それによってより人間の人間に対する他者性が鮮明になるということは明らかなことと思われる。
だから明らかに、ジェムズの小説における視点人物の複数化は、彼の作品の成熟の過程を示すのである。それはジェイムズの影響を強く受けた夏目漱石の『道草』から『明暗』に到る過程にも見て取れるものではないだろうか。『道草』の場合、漱石その人を思わせる健三ただ一人の視点によって書かれることで、彼のそれ以前の作品との連続性を未だ保っている。それに対して『明暗』ではお延と津田という複数の、しかも漱石自身とはまったく違ったタイプの人格による視点を導入することで、彼の作品はそれまでの作品とは隔絶した世界を切り開いたのである。
そういう意味では、後期三部作二作目の『鳩の翼』は画期的な作品であった。言うまでもなく、『ロデリック・ハドソン』は処女長編であり、傍観者の視点によって主人公ハドソンを相対化し、マレットをも相対化することに成功しているが、本質的に他者の存在を顕在化させるようには書かれていない。
もう一つ言っておかなければならないのは、この作品の6年後に書かれた『ある貴婦人の肖像』における女性の視点ということになるだろう。『ロデリック・ハドソン』には絶世の美女クリスティーナ・ライトが、〝宿命の女〟として登場するが、彼女に視点が与えられることはない。
これに対して当然『ある貴婦人の肖像』には、主人公イザベル・アーチャーに視点が与えられているし、『鳩の翼』では女主人公ケイト・クロイに、『金色の盃』でも第2部に「公爵夫人」のタイトルを付して、マギー・ヴァーヴァーに視点が与えられている。『ロデリック・ハドソン』ではクリスティーナ・ライトに視点が与えられていないために、この女性の輪郭が不分明なものになっているという欠陥は、指摘しておかなければならないだろう。
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