なぜ芸術表現の問題が言語の問題に帰結するのかと言えば、それはソンタグが次のように考えているからである。
「芸術の制作と作品の、媒介された性格をあらわすには、言語が比喩としてもっともすぐれているのではないだろうか。一方で、言葉は非物質的媒体であり、(たとえばイメージと比べた場合)超越という企図、すなわち特異で偶然(すべての単語は抽象であり個別具体物にはごくおおざっぱに基礎を置いている、ないしは言及するにすぎない)の何かを超えていく意図に、本質的に関わる行為だ。他方で、言語とは芸術を作る素材としては、もっとも不純で、もっとも汚染され、もっとも使い古されたものだ。」
こうした考え方についても、私はベンヤミンの「言語一般あるいは人間の言語について」の冒頭の言葉を参照しないわけにはいかない。
「言語の存在は、何らかの意味でつねに言語を内在させている人間の精神表出の、そのすべての領域に及ぶのみならず、文字通り一切のものに及んでいる。」
ソンタグの言っていることに間違いがあるとすれば、彼女が芸術のあり方にとって言語が比喩として役立つと考えているところにある。ベンヤミンによれば問題は逆であって、芸術の方が言語の比喩であり、より正確に言えば芸術は言語のメタファーであって、言語の原理こそが芸術を動かしているのである。
しかし、ソンタグがここで言語の問題に言及し、この論考の最後まで言語についての思考を引っ張っていることは、アートについて考える時にこの上もなく正しい姿勢と言わなければならない。
言語は具象的であったり、抽象的であったりするのではない。そうではなく、言語はいつでも抽象的であって本質論的である。この抽象性というあり方が何かものごとの本質を指し示す機能を有しているのであって、だからこそ「超越という企図」に十全に関わることができるのである。
芸術がものごとの本質に迫ることができるとしたら、それは芸術が言語の非物質的媒体としてのそうした機能に負っているからである。言語は非物質的であるからこそ、抽象的媒体なのであり、本質論的媒体なのである。本質を指し示すことができるのは言語だけであって、それは言語の抽象性の内部に本質というものが含まれるからである。
一方で言語は、いつも「不純で」「汚染され」「使い古されたもの」としての性格を持つ。それは日常生活の中で「汚染され」、歴史の中で「使い古されて」いく「不純な」媒体である。それは芸術ならざるものによって「汚染され」るばかりか、芸術そのものによっても「汚染され」ていく。
しかし、それは本当だろうか。また、それは現代あるいは近代において初めて起きた出来事なのだろうか。近代以前において言葉というものが純粋で、汚れてもいず、使い古されてもいなかったなどということがあり得るのだろうか。よく考えればそれは、歴史上いつでも繰り返されてきた言語の本質的な弱点に関わる出来事であり、そのことを近代が初めて知ったのだといった方が正しいのではないか。
それでも言語がそのようなものとして認識されているかぎり、芸術が言語以前のもの、あるいは言語を超えたものに向かおうとするのは当然のことだろう。芸術がそれ自体の廃棄にさえ向かおうとするのは、歴史上初めて言語というものの限界が明確に認識されたからなのである。
しかし、言語以前や言語を超えたものに向かおうとすることもまた幻想にすぎず、言語以前の世界や言語を超えた世界などどこにもないのだから、人間がそこに到達できるはずもない。言語以前的な、あるいは言語を超えた世界というものを概念的に確定するのもまた言語そのものなのであるから。
ところでソンタグは、言語の二つの性質に対応させて、「充満」と「空虚」ということを言う。
「現代のアーティストたちは、沈黙をふたつのスタイルで擁護する。声高に、あるいは、声低く。
声高なスタイルは、「充満」と「空虚」という不安定な対立の関数として現われる。充満の肉感的・エクスタシー的・超言語的把握は、どうにももろい。恐ろしい、ほとんど瞬時に起こる落下によって、それは否定的沈黙の空虚へと崩壊してゆくことがある。」
とりあええず「声高なスタイル」の方について言っておくと、「充満」と「空虚」は言語が同伴する〝意味〟の問題に深く関係している。言語の超越性が意味の「充満」を保証し、言語の汚染が意味の「空虚」をもたらすのだ。
現代の詩人であれ、美術作家であれ、音楽家であれ、すべてのアーティストはこの両極性の中で苦闘を続けざるを得ないというわけである。
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