玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

スーザン・ソンタグ『ラディカルな意志のスタイルズ』(2)

2019年03月22日 | 読書ノート

 ソンタグはこの引用の前に、沈黙ということの別のあり方について書いている。それは以下のような事例によって明らかにされる。

「ランボーは奴隷取引で一儲けするためにアビシニアに行った。ヴィトゲンシュタインは、村の小学校教師をしばらく務めたのち、病院の雑役夫としての仕事を選んだ。デュシャンはチェスに向かった。」

 三つの事例によって示される沈黙は、自らの作品に対する否定の意識として共通している。一見オーディエンスとの関係性を断念することでの沈黙とは異なるものと思われる、アートそれ自体の断念もまた、作品を媒介としてオーディエンスと向き合うアーティストの沈黙として、同種の性質を持っている。
 とにかくモダン・アートにおいては、作品であることそれ自体を否定する作品というものもあり得るのだから。もちろん、マルセル・デュシャンの《泉》と題された男性用便器のことを私は言っているのだが、それもまたアートの本質に関わるものというよりも、作家とオーディエンスとの関係性の取り方に関する問題を開示しているのではないだろうか。
 私はソンタグが引用しない、ヴァルター・ベンヤミンが「翻訳者の使命」に記した、次のような言葉を引用してみたい気持ちに駆られる。

「芸術はそのいかなる作品においても、人間に注目されることを前提としてはいない。というのも、いかなる詩も読者に向けられてはおらず、いかなる絵画も鑑賞者に、いかなる交響曲も聴衆に向けられてはいないからである。」

 ベンヤミンのこの言葉は、ソンタグの言うアートとオーディエンスとの関係の究極の姿を捉えている。ベンヤミンに作品自体への否定の意識はないが、作品の成立条件を崩壊させる契機はそろっている。ベンヤミンが言っていることは、芸術というものが一般大衆の理解におもねるものであってはならないということ、あるいは芸術というものを極めれば、それはオーディエンスの理解に訴えるものとはならないという、いささか世俗的な意味合いをも含んでいるはずである。
 そこでオーディエンスとの対話を打ち切ろうとするならば、作品それ自体を否定することが最も手っ取り早い方法であることに間違いはなく、ベンヤミンのこの文章の中にも作品自体の否定という契機は含まれてしまうのである。
 沈黙とはだから、まずは理解を絶する作品を目の前にした時の、あるいは作品としての属性をまったく持たない作品に接した時のオーディエンスの沈黙である。それはモダン・アートにおいてとりわけ顕著な形をとってきたから、ソンタグの取り上げる事例も美術の方向に傾きがちであるように思うし、私が「沈黙の美学」をモダン・アート論として受け止める根拠ともなっている。
 しかし、作者の側の沈黙というものもまた存在する。デュシャンにおけるレディメイドという概念は、作品それ自体を消去しようとする意図によっているからだし、ひいては作者そのものを作品の背後から消し去るという意図にもよっているからだ。作者は自らの姿を消すことによって、オーディエンスの前で沈黙するのである。
 あるいは、ピアノの前で4分33秒の間何も演奏しないというジョン・ケージの「4分33秒」は、文字通りオーディエンスの前での作者の沈黙そのものである。結局それらは作品を媒介にして作者とオーディエンスが向き合う関係性の取り方に帰着するのであり、そこから既存の芸術に対する全面的な否定という形式も生まれてくる。
 作品を媒介にしてそこで作者とオーディエンスが沈黙を強いられるのはなぜかと言えば、それは作品そのものが存続の危機に瀕しているという作者の認識によっている。ソンタグは作品そのものの危機ということを十分に認識し、それを言語の問題に帰着させている。


 

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