もちろんこんなおぞましい彫刻作品ばかりがあるのではない。ユイスマンスはこの大聖堂における、聖母マリアの圧倒的な遍在について次のように書いている。
「あらゆる種族の呼び求めるマリアが、ここにはいるのであった。この大伽藍の樹林には、聖母が遍在している。聖母はあたかも全世界から、中世人に知られていた限りでのありとあらゆる人種の外貌を借りて、この伽藍に馳せ寄ってきたように思われる。アフリカの女のように黒い聖母、蒙古の女のように黄色い聖母、黒白混血の女のようにミルク入りコーヒーの色をした聖母、それに、ヨーロッパの女の白い顔をした聖母。こうして聖母は全人類の「仲裁者」として、各人のための聖母であるとともに、また、万人のための聖母でもあることを証し立て、膝に抱く「人の子」、世のすべての子供たちに顔の特徴を借りたひとりの幼児の存在を通して、救世主はいかなる人間であろうと分け隔てなく、その罪を贖うために光臨したのだと明らかに告げているのであった。」
この引用はステンドグラスの至るところに姿を見せる聖母マリアについての文章であるが、ステンドグラスだけでなく、絵画にも、彫刻にも聖母は頻繁に出現するのだ。私はその存在を知らなかったため見学することはなかったが、地下聖堂には「黒い聖母」なるものも安置されているという。私が見たのは北側内陣にある「柱の聖母」と呼ばれる像であるが、この聖母もまた黒く塗られている。
内陣中央から北側を望む
柱の聖母
ユイスマンスならこの聖母を白人に限らず、全世界の人種に向けた「仲介者」としてのマリアの顕現とみなし、だめ押しのように「大きく裾を広げた衣装を着けて、さながら銀製の鐘のような姿を一本の柱の上に見せるに至ったのである」と書くだろう。
この黒い聖母を見てラテン・アメリカに特有の〝黒いキリスト像〟のことを連想しないわけにはいかない。明らかにそこにはキリスト教以前のラテン・アメリカ世界の土着信仰の痕跡があるのだと見るべきであって、それは必ずしも世界の全ての人種に開かれたキリストを象徴しているわけではあるまい。
馬杉宗夫も『シャルトル大聖堂』の中で、黒い聖母のよって来たるところを聖書に求めることはできないことを示し、それがキリスト教以前のドリュイド教時代の地母神信仰に淵源があると言っている。
つまりシャルトル大聖堂における聖母マリアの遍在は、キリスト教以前の土着信仰の痕跡を物語っていると考えられる、と言うよりもむしろ、カトリック大聖堂がキリスト教布教のために土着の信仰との妥協を図ったということ、それによって一神教のキリスト教では本来、本質的ではなかった聖母信仰が前面に出てしまうという結果を招いたことを証明していると思う。
そのことをユイスマンスが了解していたとは思えない。彼はパリ大聖堂のみならず、フランス各地の大聖堂、アミアン、ラン、ランス、ルーアン、ディジョン、トゥール、ル・マン等に比べて、シャルトル大聖堂こそが聖母に対する祈りにおいてもっとも純粋性を保っているとの主張を繰り返すばかりである。
しかし、カトリックが本来持っていなかった(表向きは禁じられてさえいる)聖母への信仰が純化されればされるほど、大聖堂はキリスト教としての純粋性を失っていくのである。ならば〝ノートル=ダム寺院〟というのは、キリスト教本来の教義とマリア信仰との矛盾の産物だということになる。ルターの新教がカトリックの聖母信仰を批判したことには理由があったのである。
しかし、キリスト教原理主義とも言うべきプロテスタントが、その原理主義故に厳格化、教条化していったのに対して、カトリック大聖堂がキリスト教以前の土着信仰を聖母信仰として取り込んでいったことは、その懐の深さを示すものであり、矛盾を矛盾として受け入れる柔軟性を持っていたことも事実であった。
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