玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

カルロス・フエンテス『アウラ・純な魂』(3)

2015年11月03日 | ゴシック論

 四番目は「女王人形」という作品である。ゴシック的という意味では、この作品と「アウラ」が群を抜いている。フエンテスのゴシック好きが手に取るように分かる作品である。
「僕」が子供の頃に読んだ本の中から見つける一枚のカード。そこには「アミラミアは友だちのこと忘れません。ここに書いてある場所へさがしに来てください」と書いてある。「僕」は14歳の頃、いつも本を読んでいた公園で、当時7歳のアミラミアと出会い、「二人で手をつないで草原を駆け抜けたり、松の木をゆすって松ぼっくりを拾ったりした」ことを思い出す。
「僕」にとっては少年時代の読書の方が大きな意味を持っている。フエンテス自身と思われるその「僕」は「少年時代の僕はおよそ退屈なお仕着せの授業に我慢できず、よくそのベンチに腰をおろして何時間も本を読みふけった。その時は自分が書いてもいないのに、まるで自分が書いたような気持になったものだった」と述懐するのである。
 今は「資格を取り、事務所を構えている僕」は29歳になっているが、「以前は本や公園、それにアミラミアといった僕を引きつける中心があったのに、今はそれがないということなのだ」と言い、充実した少年時代を取り戻すために、14年前にアミラミアがカードに残した住所を尋ねてみようとする。
 そのころ読んだ本として、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』や、ジュール・ヴェルヌの『ツァーの密偵』、アレクサンドル・デュマの『三銃士』などが挙げられているが、フエンテス少年はこのような作品によって文学に目覚め、ゴシック小説を読みふけるようになったのであろう。
「僕」が偶然にアミラミアのカードを見つけ、その家を尋ね、そこで怪異なもの(ここでは超自然的という意味ではない)に出逢うというストーリーは完全にゴシック小説に特有のものであるし、過去への遡行が現実との大きなギャップをもたらすという趣向もゴシック小説そのものである。
 その家で「僕」は「青い格子縞の小さなエプロン」が洗濯物として干されているのを発見する。それは幼いアミラミアがいつも身につけていたエプロンであり、「僕」はそこにアミラミアが暮らし続けているのだと確信する。
 この「青い格子縞」というのがキーワードになっていて、木村榮一はそれが意味するものについて明快な解説を施しているのだが、もちろん解説を読む前にこの作品を読む日本の読者はそんなことは分からない。
 日本の読者は緊迫感みなぎるゴシック小説としてこの作品を読んでいくのだし、「僕」がこの家で出逢う「女王人形」と現実のアミラミアの姿に激しい衝撃を受けないわけにはいかない。
「僕」はこの家の階上でアミラミアの「作りものの遺体」に出逢う。様々な花が飾られ、子供のおもちゃが並べられた屋上の部屋には小さな柩が安置してあって、アミラミアの陶製の人形がそこに眠っているのである。
 そして、9か月か10か月あとにその家を再訪した「僕」は、死んだはずのアミラミアに玄関で迎えられる。「身体が妙な形に歪んだ、車いすに乗った若い娘が、片方の手を車いすのハンドルにかけ、おかしな具合に貌を歪めてほほえみかけてくる」のである。
 ここで読者は背筋が寒くなる。このお話が作り話だと思っていても戦慄が走るのである。この作品は1972年に白水社が出した「現代ラテン・アメリカ短編選集」にも、桑名一博訳で収められていて、最後の場面は次のように訳されている。
「輪椅子に載っているその奇形の若い女は、片手でドアの握りをつかんだまま、捕えどころのないしかめ顔をして私にほほえみかける」
 ドアの握りというのは誤訳であろうが、"奇形"ということははっきり書いておいた方が分かりやすい。そのことで両親の「僕」への不可解な対応の意味も理解されてくるからである。

 

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