日本女子大の日本学術振興会特別研究員・野上元さんの「戦争と書くこと-近現代日本における『戦争体験』の歴史社会学的研究」という論文を読んだ。学術論文を読むのは疲れる。
この論文は戦争体験を直接聞く事が出来た時代の終焉にあたって、「戦争体験」を書くということはなんだったのかをまとめようとしたものだという。戦後大量に生まれた「戦争体験記」はいわゆる総力戦というものを背景にしていて、太平洋戦争後の日本に固有のものだ。
野上さんは日本にとっての最初の総力戦・日露戦争における森鴎外の記録や田山花袋の従軍記から始め、太平洋戦争後の大岡昇平の「野火」や「レイテ戦記」を中心に論じている。
「戦争体験は書くことにおいて初めて現象している」というのが野上さんの結論で、そのために「戦争体験」がどのようにして書かれたかを詳細に論じている。大岡昇平の復員体験がそこで参照されもする。
しかし、書くことでしか残るはずもない「戦争体験」というのは、ある意味当たり前のことで、あまりそこにこだわりすぎることは多くの「戦争体験記」の持つ重みを減じてしまうことにならないかとも思う。
先日紹介した野呂邦暢の『戦争文学試論』で、私は初めて日本の兵士が戦場において日記やノートを書くことを禁じられていなかった事実を知った。アメリカの兵士は死体に重要な軍事情報が残されることを恐れて、日記などを書くことは禁じられていたのだという。したがって、アメリカ軍は日本の兵士の死体から多くの記録を回収し、重要な軍事情報を得ていたらしい。
そこで、なぜ旧日本軍はそれを禁じなかったのかという疑問が生じる。推測だが、あまりに過酷な戦場で書くことすら禁じたら兵士としてのモチベーションが崩壊すると考えたのではないかと思う。そして、日本の多くの兵士は律儀にも克明な記録を残し、生きて帰ることが出来た者はその記録を元に膨大な「戦争体験記」を書き残した。
だから「戦争体験記」は記憶の保持ということと大きく関わっているはずで、負け戦を戦った兵士の記憶の濃度とともに、考えてみなければならないことではないかと思う。
野上さんの学術論文を読み誤っていたらお許しを。
この論文は戦争体験を直接聞く事が出来た時代の終焉にあたって、「戦争体験」を書くということはなんだったのかをまとめようとしたものだという。戦後大量に生まれた「戦争体験記」はいわゆる総力戦というものを背景にしていて、太平洋戦争後の日本に固有のものだ。
野上さんは日本にとっての最初の総力戦・日露戦争における森鴎外の記録や田山花袋の従軍記から始め、太平洋戦争後の大岡昇平の「野火」や「レイテ戦記」を中心に論じている。
「戦争体験は書くことにおいて初めて現象している」というのが野上さんの結論で、そのために「戦争体験」がどのようにして書かれたかを詳細に論じている。大岡昇平の復員体験がそこで参照されもする。
しかし、書くことでしか残るはずもない「戦争体験」というのは、ある意味当たり前のことで、あまりそこにこだわりすぎることは多くの「戦争体験記」の持つ重みを減じてしまうことにならないかとも思う。
先日紹介した野呂邦暢の『戦争文学試論』で、私は初めて日本の兵士が戦場において日記やノートを書くことを禁じられていなかった事実を知った。アメリカの兵士は死体に重要な軍事情報が残されることを恐れて、日記などを書くことは禁じられていたのだという。したがって、アメリカ軍は日本の兵士の死体から多くの記録を回収し、重要な軍事情報を得ていたらしい。
そこで、なぜ旧日本軍はそれを禁じなかったのかという疑問が生じる。推測だが、あまりに過酷な戦場で書くことすら禁じたら兵士としてのモチベーションが崩壊すると考えたのではないかと思う。そして、日本の多くの兵士は律儀にも克明な記録を残し、生きて帰ることが出来た者はその記録を元に膨大な「戦争体験記」を書き残した。
だから「戦争体験記」は記憶の保持ということと大きく関わっているはずで、負け戦を戦った兵士の記憶の濃度とともに、考えてみなければならないことではないかと思う。
野上さんの学術論文を読み誤っていたらお許しを。
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