玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(8)

2018年01月13日 | 読書ノート

第2章アメリカの構築(その4)

 ボードレールは言葉の真の意味で〝近代的〟な詩人であった。ベンヤミンほどにそのことを熟知していた人は少ないだろう。それが一見芸術至上主義的とも思われる「コレスポンダンス」に、「危機に対して確固たる者であろうとする、ひとつの経験」を、ベンヤミンに読み取らせている大きな理由である。
 そして近代とは〈非常事態〉が通常の状態となる時代ではなかったであろうか。先のタウシグの文章のなかで、「近代の衝撃に直面し、この危機への忍耐力を保ち続けようとして」の部分に、ベンヤミンの文章に対応したタウシグ自身の考えを読み取ることができる。
 しかし、続く「詩は敗北を受け入れる姿勢で形成されるのだ」の部分がよく分からない。ベンヤミンの文章を参照しても分からない。ひょっとしてここにも誤訳が潜んでいるような気がするが確かめようがない。
 タウシグは続いて次のように言うことで、トマス・サパタの叙事詩の解釈へと戻っていく。

「このような見解は、際だつような痛切さとともに、耕作機械の進歩、ラテンアメリカにおける化学肥料に基礎をおいた農業ビジネス、環境の破壊、大規模な解雇、裁判所と警察の機能停止、都市への強制的な移住、若い男性や女性の暴力的な増加といった小作農民の記憶の核心へとつながっているのだ。」

 ここには「コレスポンダンス」とトマス・サパタの叙事詩という、似ても似つかぬものを結びつけようとする意志がある。一方は芸術至上主義的であり、一方は素朴な農民詩である。相反する二つのものを結びつけるのは、「類感呪術」という概念、そしてベンヤミンの言う「危機に対して確固たるものであろうとする、ひとつの経験」という言葉、さらには同じくベンヤミンの言う「想起のデータ」という考え方である。
 さて、いささかボードレールに深入りしすぎたので、「アメリカの構築」そのものに戻ることにする。タウシグの関心はこのようにして、詩というものと歴史というものとの関係性に向かっていく。タウシグはヘイドン・ホワイトという詩人の、歴史の仕事についての言葉「究極的には、彼らが事前に考えていたことや、特に彼らの見解の詩的な本質に頼った歴史叙述のモデルや、概念であるにすぎない」を引いて、以下のような結論を導いていく。

「今一度、歴史の編さんを詩作としてとらえ直すべきだと考える。(中略)すなわち、詩人の言葉で歴史を記録し語るドン・トマスが備えているような感覚が必要なのだ。」

 このようにタウシグの議論は、歴史学批判と詩というものの復権へと導かれていく。だが彼の関心はそこに止まらない。彼がもっとも関心を寄せるのは、「情報提供者」に関する問題である。
 つまりトマス・サパタのような詩人が、コロンビアの片隅に存在していたとしても、記録者がいなければ彼の詩はどこにも伝わらない。存在していなかったのと等しいのである。重要なのは〝橋渡し〟を行う「情報提供者」だということだ。タウシグは次のように言っている。

「文化人類学はその実践がどれだけ多くを、他者の物語の語りの技芸に頼っているかについて無批判である――大いに。しかし実際には、それらの物語は語り部からではなく「情報提供者」から収集された科学的な観察として提示されたのだ。」

 さらに

「近代性にとってきわめて重要なこの橋渡しの機能について、もっと多くが議論されてきてもよかったはずだ。なぜなら、近代的な文学の感覚――メタファーを効果的にする経験上の質――を承認することは、まさに農民や未開人の役割であり続けてきたからだ。」

 タウシグが言いたいことは、文化人類学が恩義を負っているのは、農民や未開人たちの語り部と、記録者=情報提供者との遭遇に対してであるということであろう。それは「近代的な文学の感覚」=「メタファーを効果的にする経験の質」を、農民や未開人の語りを通して、近代人へと運んでいくのである。
 難解な議論である。タウシグの議論の背景には、ベンヤミンの三つの論考が隠されている。「物語作者」「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」「歴史の概念について」がそれである。
 私は三つの論考について、必要な部分しか参照できていない。それらを読むことでタウシグの議論はより了解可能なものとなるであろう。今後の私の課題である。

(第2章おわり)

 


マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(7)

2018年01月12日 | 読書ノート

第2章アメリカの構築(その3)

 しかし、この文章では何が言いたいのかさっぱり分からない。ここで私は翻訳者に対して苦情を述べておかなければならない。問題は「コレスポンダンス」を「対応すること」などと訳しているところにある。
「コレスポンダンス」がボードレールの詩のタイトルであることを、見逃しているのである。原題Correspondancesは普通「万物照応」と訳されていて、ボードレールのこの作品は象徴主義の理論をもっともよく表現したものであるとされている。この作品の1連、2連は次のとおり。

 「自然」とは一つの神殿 立ち並ぶ柱も生きていて
 ときおりは 聞きとりにくい言葉を洩らしたりする。
 人間がそこを通れば 横切るは象徴の森
 森は親しげなまなざしで彼を見守る。

 長いこだまが遠くから響きかわして
 闇のように光のように広大無辺の、
 暗い奥深い一体のうちに溶け合うのに似て、
 香りと、色と音とが互いに答え合っている。
(安藤元雄訳)

     La Nature est un temple où de vivants piliers
  Laissent parfois sortir de confuses paroles;
  L'homme y passe à travers des forêts de symboles
  Qui l'observent avec des regards familiers.

  Comme de longs échos qui de loin se confondent
  Dans une ténébreuse et profonde unité,
  Vaste comme la nuit et comme la clarté,
  Les parfums, les couleurs et les sons se répondent.

 この作品の大意は、自然は「香りと、色と音とが」互いに照応し合って、人間に対して「聞きとりにくい言葉」を洩らしているが、人間は五感によってその照応が象徴するものを読み取っていくのだ、ということになろうか。
 ここで初めて、その前に出てくる「類感呪術」という言葉とのつながりが示されるのであって、「対応すること」などと訳したのでは、読者は理解の糸口さえ与えられないことになってしまう。
「類感呪術」というのはジェイムズ・フレイザーの用語で、類似したものはお互いに影響し合うという性質を利用した呪術を意味しているが、ボードレールの「コレスポンダンス」が自然の要素の相互作用を歌ったものだとすれば、「類感呪術」と「コレスポンダンス」との相似性が見えてくるわけである。
 そこでタウシグが言及している、ベンヤミンによるボードレールの「コレスポンダンス」解釈についてみてみよう。それは「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」という論文のXに出てくる次の文章である。

「ボードレールが万物照応ということで考えていたのは、危機に対して確固たるものであろうとする、ひとつの経験であったと言ってよい。この経験は、礼拝的なものの領域においてのみ存在しうる。この領域を超え出ると、それはみずからを〈美〉として提示する。美においては、礼拝的価値が芸術の価値として現れる。」

「コレスポンダンス」が「礼拝的価値においてのみ存在しうる」というのは、ボードレールが「「自然」とは一つの神殿」と言っていることからも理解できる。それが芸術の領域に超え出ていくというベンヤミンの考え方は、例の宗教的啓示と非宗教的啓示との対比と同じ性質をもっていると私は思う。
 私によく理解できないのは、ベンヤミンがここでも「危機」ということを持ち出してくるところにある。この後でベンヤミンが「万物照応は想起のデータである」と書いていることからは、あの「歴史の概念について」で「危機の瞬間にひらめくような想起」と言っていることとのつながりを想定することができる。
「万物照応」を人間に引きつけて考えれば、それは「想起のデータ」としての意味をももつことは明らかであり、ベンヤミンはその「想起」は「危機の瞬間にひらめく」ものであると考えているようだ。「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」という論文が、実は記憶の問題を中心に展開されていくものだということを思い出さなければならない。
 ところで「危機」という問題を考えるときに、「歴史の概念について」のⅧに出てくる文章は示唆的である。次のようなものである。

「抑圧された者たちの伝統は、わたしたちが生きている〈非常事態〉が実は通常の状態なのだと、私たちに教えている。」

 


マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(6)

2018年01月11日 | 読書ノート

第2章アメリカの構築(その2)

 まず語られるのは、コロンビア南西部に位置するプエルト・テハダという、当時は小さかった町の歴史である。トマス・サパタはそこで暮らしたことがあった。 
1950年代以前までそこは、「カカオ、コーヒー、料理用バナナを育てる小作農の人たちの経済で繁栄する中心地」であった。1950年代に砂糖黍のプランテーションが入ってき、1960年代後半には「アメリカの影響を受けた化学肥料や工作機械による「緑の革命」」が始まる。
 それは伝統的な農業文化を徹底して破壊する結果をもたらした。カカオやコーヒーの樹は伐採され、高価で危険な農薬と除草剤によって環境破壊が進行していく。記録者(身元不明の青年)はそれについて「何らかの新しい種類の暴力の予兆のようであった」と書き残している。
 つまりコロンビアの「麻薬戦争」と言われる暴力の時代のことを言っているのだろう。南米のどこの国でも、アメリカ資本による農業の破壊がもたらされ、それが暴力の時代につながっていくのだが、コロンビアではとりわけ過酷な形でそれは起きた。
 それはしかし、トマス・サパタの時代以降の話である。それ以前にも暴力の歴史はあった。トマス・サパタはコロンビアの暴力の歴史について叙事詩のスタイルで語る。プエルト・テハダのような町では人口の95%を占めていた、アフリカからの奴隷の子孫の一人として、彼はコロンビアにおける暴力の歴史について語っていく。彼は千日戦争(1899~1901年まで続いた自由党と保守党による内戦)について次のように語る。

 神よ、サンブラノの政府に何を与えたもうたのか?
 すでにわれらは 兄弟で殺しあう二匹のケダモノのようだ
 サンブラノが現れたとき、町全体が震撼した
 やつらは一本の針も残さないよう、われらを丸裸にした
 四月九日のせいで、丸腰になった
 銃の前では多くのナイフも逃げていった
 なんてこった! 黒人たちにとって何という時代なんだ
(四月九日は自由党のリーダーだった、ホルヘ・エリエセル・ガイタンが暗殺された日)

 日本語に翻訳されてしまうと我々には分からなくなってしまうが、これは韻文であるから、英語でも韻を踏んだ詩として書かれているのだろう。トマス・サパタが架空の人物だとすれば、これはタウシグによる創作に違いないのだが、彼が歴史と詩について次のように考察するとき、この詩が創作であることがそれほど重要なことではなくなる。

「(詩は)人間が作りだした近似値として、現実性(リアリティ)を把握するわたしたちの方法なのだ。そして、詩が少し離れたところにある言語であるのとまったく同じように、それは他に影響をおよぼす類感呪術の形式でもあるのではないか? それは現実性を出し抜き、現実性を支配するためにやりとりをしながら、観念が強力な存在感をもつ類感の鎖にそって伝染する類感呪術の形式である。」

 タウシグはここで詩についての一般論を述べているのであって、トマス・サパタの叙事詩に限定して議論を行っているわけではない。
 ここで私は、レヴィ=ストロースが未開人における呪術と近代人における科学との構造的な類縁性を指摘した『野生の思考』における議論を思い出さないわけにはいかない。タウシグは詩(ここでは前近代的な韻文詩のことを言っているのだが)という形式を呪術の形式を結びつけているわけで、呪術に対して科学よりも詩のほうがより類縁性が高いという認識は間違った考え方ではないであろう。
 だからそれは前近代的な韻文詩のみならず、詩一般について敷衍されうる議論である。そうでなければ、ここでタウシグがベンヤミンのボードレール論「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」における議論を思い出すわけがない。

「「対応すること」(コレスポンダンス)は、危機に耐えうる形式に経験を維持するもくろみとして、その詩人の仕事のなかで獲得される。だが、それにもかかわらず、近代の衝撃に直面し、この危機への忍耐力を保ち続けようとして、詩は敗北を受け入れる姿勢で形成されるのだ。」


マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(5)

2018年01月10日 | 読書ノート

第2章アメリカの構築(その1)

 この試論は「ヨーロッパがアメリカを侵略してから500周年となる」1992年、コロンビア人類学協会がボゴタ(コロンビアの首都)で開催した記念事業での、マイケル・タウシグによる講演録として掲載されている。
 序文というか講演の前置きのような部分があって、それが私たちの注意を大いに惹く。アメリカというのはもちろんアメリカ合衆国のことではなく、南北アメリカ大陸のことであるが、比重は南アメリカのほうに大きくかかっている。
 それは人類学というものが、ヨーロッパ人による南アメリカのインディオの社会を対象としたフィールドワークに多くを負ってきたからである。そのことはレヴィ=ストロースの著作によっても明らかなことである。
 タウシグはそのこと自体に疑問の眼を向ける。南アメリカにはインディオだけではなく、アフリカから連れられてこられた黒人たちも厳然と存在しているからである。黒人の存在は文化人類学にとってこれまで、インディオ社会の理路整然としたいわゆる〝構造〟を脅かす〝不快な〟対象であった。
 タウシグにとって「アメリカの構築」とは「新世界秩序や主人による物語」にすぎず、黒人社会に眼を向けることは「アメリカの脱構築」を意味することになる。つまりタウシグはコロンビア人類学協会が与えたテーマそのものを疑問視しているわけで、「アメリカの構築」という第2章の表題は「アメリカの脱構築」を含んだ意味でのそれということになる。
 なぜならタウシグのこの試論は、コロンビアのある黒人の語り部の語る叙事詩をモチーフとしているからである。その黒人は高齢で盲目のトマス・サパタという名の人物であることが紹介され、彼の語りを記録した身元不明の白人青年が残した日記、資料、写真、録音テープが、プラハの公文書館で発見されたということも紹介されている。
 我々はそれを真に受けて読み進めていき、トマス・サパタという黒人が語り部というよりは哲学者であって、プラトンやピタゴラスなどのギリシャの哲人の言葉に通暁している上に、その恐るべき記憶力によって、長大な叙事詩を延々と暗誦することができるということを知ることになる。
 タウシグの試論はこのトマス・サパタという男と、身元不明の白人青年=記録者との関係性を巡って展開していくが、それはとりもなおさず、人類学者とその対象となる人物との関係性そのものに敷衍される。
 タウシグは、ベンヤミン(この一書のなかで最も多く引用あるいは参照される思想家である)や、フロイト、ニーチェ、バタイユなどを援用しながら議論を進めていくのだが、最後に驚くべきことが書かれている。
 文書が発見されたというプラハ公文書館というのは架空の存在であったとタウシグは言うのである。タウシグがこの試論のなかに登場させる公文書館の館長も、記録者である白人青年も、あるいはトマス・サパタという黒人の存在も虚構だったのである。
 最後に著者注がついていて、そこには「この作品をわたしと一緒に上演してくれた文化人類学者のクララ・ジャノに多く感謝したい」と書かれている。つまり「アメリカの構築」という一編は、マイケル・タウシグによって講演されたのではなく、ひとつの作品として〝上演〟されたのである。
 この試論全体が、虚構の上に成り立っているということが、最後に明かされているわけだが、読者はそのことによってこの試論を放擲することができるであろうか。「ひとを馬鹿にするな」と言ってこの試論を投げ捨てることができるだろうか。
 少なくとも私にはそんなことはできない。「アメリカの構築」が虚構であっても、そこに展開されている議論は虚構ではないし、そこに書かれていることが真実を含んでいることは否定できないと考えるからである。むしろタウシグは、これまでの人類学のフィールドワークのあり方こそが虚構であったとさえ言いたげである。
 虚構が無価値であるなら、すべての小説は無価値である。しかし、虚構が何ものをも主張し得ないと考えることは愚かなことである。タウシグがここで人類学のルールに違反していることは確かだろうが、虚構によって真実を主張しているのであれば、私にとってはそれでかまわない。私は文化人類学にフィールドワーク的なデータを学ぼうとしているのではないし、私が学びたいのは文化人類学を通した〝ものの考え方〟なのであるから。
 再読しなければならない。虚構と知った上で再読しなければならない。
 


マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(4)

2018年01月09日 | 読書ノート

第1章ヴァルター・ベンヤミンの墓標――非宗教的啓示(その3)

 タウシグは「何も見つけられなかった」ハンナ・アレントが、代わりに見つけたもののことについて思いめぐらしている。アレントは何を見つけたのか。彼女は墓地の周囲に広がる絶景を見つけたのだった。彼女は次のようにショーレムに書き送った。

「小さな湾に面した墓地からは、直接に地中海が見晴らせます。それは岩山を切りひらいて階段状につくられており、立ち並ぶ石の壁に柩がおさめられています。それはだんぜん、わたしがこれまでの生涯で見たもっとも幻想的な、もっとも美しい場所のひとつです。」

 この風光明媚な墓地に1994年、テルアヴィヴの芸術家ダニ・カラヴァンによるベンヤミンのための記念碑「パサージュ ヴァルター・ベンヤミンへのオマージュ」が完成した(タウシグが訪れたのは2002年)。
 マイケル・タウシグはこの記念碑について詳しく書いている。墓地の入り口の手前に三角形のオブジェのようなものがあり、それは地中海の小さな湾に降りていく階段の入り口になっている。階段は87段あり、出口近くにガラスの板が立っていて、次のような碑文がドイツ語、スペイン語、カタルーニャ語、フランス語、英語で記されている。

「高名な人たちの記憶よりも、名前のない人たちの記憶を顕彰することのほうが、ずっと困難である。名もない人びとの追憶に史的構成はささげられる。」

 タウシグはこの記念碑とその碑文に強く心を動かされたようで、写真を10枚使ってその構造を示し、碑文の写真も掲げている。
 この碑文を読んでタウシグは、スペインの歴史のことに思い至るのである。言うまでもなく、それはスペイン内乱の歴史である。ベンヤミンが眠るこの墓地だけが墓地なのではない。「スペインのいたるところが墓地である」という言葉を、タウシグはスペインの有力な新聞のなかに見つける。
 いたるところでフランコ将軍による虐殺があり、虐殺のあったその場所が「集団墓地」そのものなのである。だからスペインで集団墓地に埋葬されるなどということは、何も特別なことではない。
 あるいはナチスに追われた知識人たちが、スペインに逃げてきてどうにもならずに自殺するというようなことが、ベンヤミンの場合に限ったことでもなく、ごく普通にあったという事実をもタウシグは明らかにする。
 というような事実をベンヤミンのためにつくられた記念碑の碑文は、衝撃的に明らかにするのである。タウシグは次のように書く。

「美しさと死と無名性のいり混じったものとして、空間と場所が感覚されるのは、そのときだ。」

タウシグはその時、ベンヤミンの言う「非宗教的啓示」に打たれるのだ。彼はこの「非宗教的啓示」について、墓地の礼拝堂に続く階段を見上げたときの「宗教的啓示」と対比させて次のように言う。

「何もない空間や、海や、空といった無名性の開かれた表現をつうじて、非宗教的啓示のほうは、そのときにも力を増すことができる。それは本当の意味で、無名の死者たちが世界に加えた重みについての強烈な声明であるのだ。」

これ以上何を付け加えることができるだろう。しかし私は、マイケル・タウシグがこの本の序文で言っている「「ヴァルター・ベンヤミンの墓標」というエッセイでは、わたしは風景に歴史を制圧させようと試みた」という言葉について考えないわけにはいかない。
 つまり、ベンヤミンが「歴史の概念について」で言っていた「危機の瞬間にひらめくような想起」こそが、タウシグにあって非宗教的な啓示をもたらしたのである。だから正確には「風景に歴史を制圧させる」のではなく、〝風景が歴史を制圧する〟場面にタウシグは立ち会ったと言うべきだろう。
 ベンヤミンの言葉がその時、直接的にタウシグに非宗教的啓示を与えたのだったかもしれない。だからベンヤミンは生きているのである。
(第1章おわり)


マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(3)

2018年01月08日 | 読書ノート

第1章ヴァルター・ベンヤミンの墓標――非宗教的啓示(その2)

 マイケル・タウシグはベンヤミンが死の直前に書いた「歴史の概念について」というテクストに記された「敵が勝利を収める時には死者もまた無事ではいられない」という言葉を何度も引用する。テーマが「ベンヤミンの墓」である限りそれは当然のことである。
 しかし、「歴史の概念について」というテクストは難解を極める。先の言葉は6番目の断章の中に含まれているが、最初の部分は以下のようなものである。

「過ぎ去った事柄を歴史的なものとして明確に言表するとは、それを〈実際にあった通りに〉認識することではなく、危機の瞬間にひらめくような想起を捉えることを謂う。」

「死者もまた無事ではいられない」という言葉は、この文章に先導されていて、理解の糸口を与えてくれる。そして「死者の危機」に続く文章は次のようになっている(続けて読む。なおこの訳は「ベンヤミン・コレクション」の浅井健三郎訳)。

「もし敵が勝利を収めるなら、その敵に対して死者たちでさえもが安全ではないであろう――この認識にどこまでも滲透されている、その歴史記述者にのみ、過ぎ去ったもののなかに希望の火花を掻き立てる能力が宿っている。しかも、敵は勝つことを止めてはいない。」

 このテクストをいったいどう読めばいいのだろう。「過ぎ去った事柄を〈実際にあった通りに〉認識する」などということはあり得ないことであって、そのようなことが可能だと考える歴史記述者に「希望の火花を掻き立てる能力」はないと言いたいのだろうか。
 さらにまた、「危機の瞬間にひらめくような想起」として過去を捉えるならば、敵の勝利に対して死者たちの安全を守ることができると言いたいのだろうか。そして敵とは、ベンヤミンにとっての当面の敵=ナチスだけを意味しているのではないであろう。そのことはこの文章に先立つ部分「メシアはたしかに解放者として来るのだが、それだけではない。彼はアンティキリストの超越者としてやって来るのだ」によって明らかだろう。
 アンティキリストがニーチェ的な意味で言われているのかどうかさえ、私にはよく分からないが、「危機」とは当然ナチスに追われてスペイン国境の町にまで逃げてきたベンヤミン自身のそれを意味していると同時に、より普遍的な「危機」をも意味しているだろう。そうでなければ「歴史の概念について」というようなタイトルで書かれるはずがない。
 ベンヤミンの死に学ぶということは、彼の死によって完結される物語を紡ぐことではない。そうではなくタウシグがこの章で行っているように「危機の瞬間にひらめくような想起を捉える」ことによって、死者の安全を、というか死者の生を保持することなのだ。
 マイケル・タウシグのもう一つのキーワードは「非宗教的な啓示」というものである。これはベンヤミンが1929年に書いた「シュルレアリスム」というテクストに出てくる言葉であり、当時のフランスのシュルレアリストたちの運動の本質を捉えた言葉である(「ベンヤミン・コレクション」の久保哲司訳では「世俗的啓示」と訳されている)。この言葉の意味は次のようなベンヤミンの文章によって明らかになるだろう。

「さて、宗教的啓示の真の創造的克服は、麻薬によってなされるのでは絶対ない。克服は〈世俗的啓示〉において、すなわち唯物論的、人間学的な霊感においてなされるのである。」

〈世俗的啓示〉は宗教的啓示を克服し、超えていくものと考えられている。ベンヤミンの言語論にはここで名指しされている〈世俗的啓示〉に関連していると思われる〈啓示〉の概念が頻出する。啓示は深く言語に関連していて、ベンヤミンの思想の中核をなす概念の一つでもある。
 ベンヤミンは「シュルレアリスム」において、シュルレアリストたちの言語芸術のなかに〈宗教的啓示〉を超えるものとしての〈世俗的啓示〉を見て取っているわけである。ベンヤミンはとりわけアンドレ・ブルトンの『ナジャ』の中にそれを顕著なものとして読み取っている。
 ではマイケル・タウシグにとっての〈世俗的啓示〉とは何か?

 


マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(2)

2018年01月06日 | 読書ノート

第1章『ヴァルター・ベンヤミンの墓標――非宗教的啓示』(その1)

 まずこの第1章を読んで、私はそれを民族学者が書いた文章とはとても思えないという印象を持たざるを得ない。本書のタイトルにもなっているこの章は、マイケル・タウシグがベンヤミンの自殺した地、スペインとフランスの国境の町ポルトボウに、ベンヤミンの墓を訪ねて書いたエッセイである。
 しかしそこにあったのは、墓の不在であった。ベンヤミンの死後2~3ヶ月後に、ポルトボウを訪れたハンナ・アレントは、「何も見つけることができませんでした」と、ベンヤミンの友人ゲルショム・ショ-レム宛の手紙に書いた。
ショ-レムは墓守たちが、ベンヤミンの墓を求めてやってくるのに応えるために偽の墓をでっち上げたということを、回想録に書いているというが、アレントがやってきたのはその前であった。事実はどうなのか。
 事実はベンヤミンの逃避行の同行者の一人であったフラウ・ガーランドが、5年間の契約で墓地の壁龕に埋葬し、期限の後1945年に集団墓地に入れられていたということであった。またベンヤミンはベンジャミン・ウォルター博士という偽名でスペインに入国していたため、ハンナ・アレントは墓地にヴァルター・ベンヤミンの名を見つけることができなかったというのが真相であった。
 タウシグは偽物の墓を糾弾するショーレムに対してきわめて冷淡である。そこに物語と死との密接な結びつきを見てとるからである。ベンヤミンは「物語作者についての有名なエッセイ」(それを私はまだ読んでいないが、1936年に書かれた「物語作者」)の中で、「物語作者に権威を与えるものは死である」という命題をたてているという。
 つまり墓とは、死によって権威づけられる物語の謂いにすぎない。ショ-レムが真正の墓にこだわるのであれば、彼はベンヤミンの考えを理解せず、死によって完成される物語を望んでいるだけなのである。
 タウシグはポルトボウに「巡礼にきたわけではない」と書く。タウシグは次のようにその理由を説明する。 

「ベンヤミンの墓所のまわりで、彼への個人崇拝がはじまっていることに気がつき、居心地の悪さをおぼえたという理由の方が当たっている。ベンヤミンの死にまつわるドラマと、一般的にホロコーストと呼ばれるドラマとが、彼の文章と人生がもつ謎めいた力を占有して、それを曇らせてしまうことが許されているかのように思えた。はっきりいえば、彼の生そのものよりも死の方が意味あることになってしまうのだ。」

 そう、ベンヤミンの死よりも重要なのは生の方なのだ。彼は「一個の遺体なのではなく一個の精神」なのであるから。
 作家の死というものを巡る膨大な言説は、作品そのものを無価値化する方向にしか進みようがない。作家にまつわる物語というものこそは、死によって完結され制度と化した歴史の中に埋葬されていく。それは作品そのものや作家の精神から遠ざかろうとする運動にすぎない。
 フランスの作家や音楽家たちは、彼らが尊敬する作家や音楽家たちに対するオマージュの思いを、「○○の墓」という形で具現化した。ピエール・ジャン・ジューヴの『ボードレールの墓』や、モーリス・ラヴェルの「クープランンの墓」などの作品がその例である。彼らにとっては作品として打ち立てられた墓こそが真正の墓なのである。
 マイケル・タウシグの『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』もまた、そのようなものとして読まれなければならない。英語の原題はWalter Benjamin's Graveであって、字義通りに訳せば「ヴァルター・ベンヤミンの墓」なのである。その墓は物理的に存在する墓なのでは決してない。タウシグがフランスの作家たちの慣例に倣っていることは明白ではないだろうか。
 そしてタウシグの試みはほとんど完璧に成功している。タウシグはベンヤミンの逃避行と死それ自体に注視するのではなく、ベンヤミンが残した死にまつわる言葉や命題をこそ呼び起こそうとしているのであるから。

 


マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(1)

2018年01月05日 | 読書ノート

マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(1)
 数ヶ月前からその書店を訪れるたびに、その本の存在が気になって仕方がなかった。水声社から叢書「人類学の転回」の一冊として出ている、マイケル・タウシグという人の『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』という本は、たったひと棚しかない哲学のジャンルに含まれる一冊として、下の方にひっそりと置かれていた。
 発見してから2~3回その書棚を訪れたが、いつも売れずにそこに留まっている。私が興味を覚えたのはもちろんヴァルター・ベンヤミンの名がタイトルにあるからであった。しかし、なかなか私の食指は動かない。
 昨年私は『言語と境界』という、後半がベンヤミンの言語論についての論考になっている本を上梓したが、最後の文章を書くときに、諸般の事情から患っていた胃潰瘍が急激に悪化するという経験をしている。
 当時は昼間の仕事も忙しく、ものを書くのは夜に限定されていた。夕食を終えて机に向かい、ベンヤミンの本とベンヤミンに関する参考文献を開くと、そのとたんに胃がギリギリと痛みだすのである。最後の一編を書き終わったとき、「もうこんなきついことはやめよう」と正直思った。
 特にそのとき参考にしていたアントワーヌ・ベルマンの『翻訳の時代』という本が、胃潰瘍の痛みと密接に関係している。ベンヤミンその人の本よりも、ベルマンの本の方が今でも胃の痛みを想起させる。
 その後私は哲学的な本を読むことから遠ざかり、もっぱら小説を、その中でも特にゴシック小説といわれるものを中心に読みあさり、このブログの「ゴシック論」を展開することになった。
 およそ3年間(腸閉塞で手術・入院・自宅療養の半年を含めて)そんな読書生活を送ってきたのだが、小説ばかり読んでいると頭の中の収拾がつかなくなってくることがある。収拾をつけるためにこのブログを自分に義務づけていても、そこから逸脱する読書体験というものもある。
 昨年末に、トマス・ピンチョンの『ヴァインランド』という小説を読んだのだが、私はそれについて書くことができない。ピンチョン小説があまりに破天荒なために、それについて行けないというだけの理由ではない。そうではなく、むしろそれが私の中の論理的中枢を刺激しないからという理由からである。
『ヴァインランド』で頭の中をぐちゃぐちゃにされた私は、年末にその書店を訪れて、3度目かに『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』に面会し、ついにそれを買い求めることを決断した。このままでは私の中の論理的中枢が破壊されてしまうのではないかと恐れたからだ。
「人類学的転回」と言われても、私は文化人類学の本をろくに読んできてはいない。クロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』に思想的な転向を促され、『悲しき熱帯』に論理的な感動を憶えたという経験があるくらいで、マルセル・モースもジェイムズ・フレイザーも読んだことがない。
 レヴィ=ストロースの本が文化人類学の思想的転回点としての金字塔であるという事実は、私にとってそのフィールドワークとしての価値よりも遙かに重要な要素であって、未開人と呼ばれる存在に接したこともない私にとって、レヴィ=ストロースの〝ものの考え方〟の方が圧倒的な衝撃をもたらしたのであった 。
 ところでマイケル・タウシグなどという人は全然知らないし、帯に書いてある「ゴンゾー人類学者」なる言葉にも初めて出会ったのであるが、ではなぜ私はこの本を買うことにしたのだったか。
 それは訳者あとがきに「フィクションとしての枠組みを使っている」というような解説があり、帯に「ビートニク小説のようにも読める民族史的試論集」なる言葉が書き付けてあったからだろう。
 私が3年間小説を読み続けてきたのは、フィクションに対する確固とした信頼があったからである。私は中学生の頃から様々な本を読んできたが、フィクションとしての小説ほどに、私に世界に対する眼を開かせてくれたものはないからである。
 私はほとんどフィクションを信奉している。だからフィクションの枠組みを使った人類学なるものがいかなるものであるのか、読んでみないわけにはいかなかったのである。
マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(2016、水声社、叢書「人類学の転回」)金子遊、井上里、水野友美子訳