玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

建築としてのゴシック(9)

2019年01月19日 | ゴシック論

●酒井健『ゴシックとは何か』③
 人は歴史遺産としての巨大な建造物を前にして、そこに大きな権威というか権力を読み取ってしまうものだ。私は北京で万里の長城に登ったときに、そこにどんな美しさも感じなかったが、当時の皇帝の恐るべき権力の姿を感じ取って暗澹たる思いがしたことを覚えている。
 万里の長城は言ってみれば狂気の沙汰であって、このような実効性のないものにどれだけの資材と人員を注ぎ込み、民衆にどれだけの責苦を与えたかということにまず思いを馳せてしまう。そこには権力の狂気があり、そういうものがかつて歴史上存在したということを感得するためだけでも、ここに来てこの場所に立ってみる必要があると思った。
 紫禁城でも同じことを考えた。あの巨大な宮殿はどこも美しくなどなくて、強大な権力の腐臭がするだけの代物だった。現在世界的な観光地となっているところは、エジプトのピラミッドを初め、そうした権力の象徴として見られる必然性を持っている。
 私が昨年の11月14日に訪れたヴェルサイユ宮殿はまさにそうした所で、フランス国王一族だけがいくつもの村にも相当するほどの広大な土地を所有し、そこに贅を尽くした建物を建て、内部には華美な装飾を施し、絵画や彫刻などで埋め尽くしている。ヴェルサイユ宮殿もまた少しも美しくなどなくて、私は権力の巨大な悪趣味を感じただけであった。「こんなことをやっていれば、ギロチンにかけられるのも当然だろうが!!」と、ルイ16世とマリー・アントワネットに言ってやりたかった。

ヴェルサイユ=虚飾の宮殿

 ところでゴシックの巨大聖堂はどうだったのか。それもまた司教とそれを支配する国王の権力の生み出したものではなかったのか。酒井健は一応そこのところにも触れているが、必ずしも十分とは言えない。ゴシック建築に対する愛着が強すぎるのだ。
 酒井は国王の立場から、ゴシック大聖堂の建立の契機を見ている。12世紀初めのルイ7世は領土喪失と第2回十字軍の失敗などで、権威失墜のどん底にあったが、そこからの巻き返しとして司教座都市に介入し、威信回復のための一環としてゴシック大聖堂の建設支援を行ったのだった。また多くは王侯貴族と姻戚関係にあった高位聖職者達もまた、自らの威信を高めようとゴシック大聖堂の建設に精力を注ぐことになった。
 これが司教間の競争心に火を付けて、ゴシック大聖堂は各地で盛んに着工され、その天井の高さと豪奢を競い合った。酒井が最初に訪れたボーヴェの大聖堂などは天井が高すぎて、建築後に崩落の憂き目にあっているほどだ。
 ゴシック大聖堂は天井の光に至るための信仰に捧げられているはずのものだが、天井の光はしかし、地上の光、物的な光によってしか到達できるものではなかった。それは民衆の信仰に奉仕するだけではなく、高位聖職者達の虚栄心に奉仕するものでもあった。この章の最後に酒井は次のように書いている。

「ゴシック大聖堂の本質は、節度や均整、安定性や合理性にこだわらず、ひたすら、よりいっそうの高さをめざしていたところにある。ゴシック大聖堂が感動的であるのは、この物質的なカリスマ性にある。キリスト教の教義による意味づけは、この感動においては、副次的な要因にすぎない。それはちょうどバッハの「ロ短調ミサ曲」が、聖書の物語性を超えて、作曲者自身の宗教的意図をも超えて、世界の多くの人々を感動させているのと同じことである。」

 私は酒井のこの言い訳にも似たゴシック賛歌に違和感を覚えないわけにはいかない。ゴシック大聖堂の聖性と「ロ短調ミサ曲」の聖性は同じではない。前者は世俗的権力と宗教的権力による共同作業であり、建築という集団作業でもある。しかしバッハの宗教曲は彼の精神に根ざした個としての作品表現である。また音楽の方がどう考えても物的な要素は圧倒的に少ない。
 バッハに関して私は酒井の言う通りだと思うが、ゴシック大聖堂に関してはいかにそれに魅せられていても、手放しで礼賛することができない。確かにゴシック大聖堂でもバッハでもキリスト教の教義は、私にとっても副次的なものに過ぎないが、ゴシック大聖堂においてより宗教的な聖堂内部のイコンの氾濫に私は馴染むことができない。ちなみにミサ曲を作曲してはいるが、バッハはカトリックの信徒ではなかった。


建築としてのゴシック(8)

2019年01月17日 | ゴシック論

●酒井健『ゴシックとは何か』②
 私が訪れたパリのノートル=ダム大聖堂は街のど真ん中に建てられていた。パリ発祥の地がシテ島だとすれば、それは旧パリのど真ん中でもあった。日本の寺院が山の奥深くだったり、山頂だったりに建てられているのとは違うようだ。また他の大聖堂の写真を見ても、どこの大聖堂もごみごみした街のなかに建てられていて、一見窮屈そうに見える。
 人里離れたところに造られたのは、修道院などの宗教施設であって、大聖堂はもともと都市の中心に建てられてこそ意義のあるものであったのだ。だから都市の発展とともに大聖堂周辺が開発されていったのではなく、初めから街の雑踏のなかにあったのである。

シャルトル大聖堂もこんな感じの立地である

 酒井の本から教えられることは多い。ローマのキリスト教がヨーロッパ各地に布教され民衆を教化していくには相当の時間がかかったのだということも見えてくる。またキリスト教が民衆信仰を取り込んでそれを同化せしめていく過程もよく分かる。ゴシックの時代とはそういう時代であったのであり、そこで果たしたゴシック大聖堂の役割は限りなく大きい。
 酒井は先の引用文で「食いぶちを求める者たちが、異教の自然信仰をかかえながら、次々に移り住んできた」と書いているが、異教徒の彼らをキリスト教へと教化するのがゴシック大聖堂の使命であった。また教化のためにキリスト教が、彼らの自然信仰を取り込まざるを得なかったことも納得がいく。もともと父権的な一神教であるキリスト教が聖母信仰を許したことも、教化のための妥協の産物であったのである。
《最後の審判》におけるキリストのイメージは、強権的で恐ろしいものであっただろう。当時の庶民にはそんなキリストを迂回して、聖母マリアに救いへの取りなしを求めたのである。そう考えればゴシック大聖堂のほとんどが聖母に捧げられた〝ノートル=ダム〟であったのも当然の成り行きだったと言える。
 酒井健はここから聖性と供犠という極めてバタイユ的なテーマに入っていく。二つの聖性ということを酒井は言う。それは「不浄で不吉な聖性が左極、清純で吉なる聖性が右極」というふうに語られるが、左の聖性は畏怖させる破壊的聖性、右の聖性は救済や復活の聖性と言える。
 これが供犠についての二つの解釈と結びついてくる。供犠とは「共同体にとって最も大切な物体(人間であることもある)神に犠牲として捧げて、神との関係を良好にし神から物的な御利益を得ることを目指す行為」とされるが、バタイユの解釈は違う。
 バタイユは「犠牲が滅ぼされるさなかに左極の聖性が出現する」と考えた。バタイユは〝聖なるもの〟を「引き裂かれて痙攣状態にある者たちの情動的な、そして瞬間的なコミュニケーション」と定義づける。つまり聖性のまっただ中に畏怖に満ちた破壊性が啓示のように出現すると言えばよいか、それはバタイユのエロティシズムの概念にもつながるものであって、重要なポイントである。
 酒井はそのことの例証として当時の民衆の聖体信仰熱や、犠牲者として苦悩するキリストを描く当時の磔刑図などを挙げている。またパリのノートル=ダムのあのガーゴイルや怪物達もその例証として登場するが、バタイユを持ち出すまでもなく、それらが原始信仰や異教的な信仰に結びついていることはたやすく推測できる。
 つまりそれらの聖性はグロテスクで、呪術的で、供犠的なアニミズムに発していることは明らかである。ゴシック大聖堂はそうしたものを受け入れる懐の深さを持っていたというか、受け入れざるを得なかったとも言えるのである。これが酒井のゴシック大聖堂の精神史に対する評価の基軸である。
 ただここで、バタイユの言っていることが正しいのかどうかということは私には分からないし、おそらく誰にも分からないだろうということを言っておきたい。中世の人間の精神を直接体験することができないからだ。私にはそれがある種の転倒のように思われるし、そうした転倒は近代の精神史の中で発生したのではないかと思うからだ。だが、このテーマは論ずるにはまだ早すぎる。
 私にはそれよりパリのガーゴイルや怪物達のことが気になるのである。それが左極の聖性にあるのではなく、グロテスクへの本源的な指向性によってあるように思う。無神論者である私のなかに左極の聖性のようなものを見出し得ないからである。ただし、無神論的聖性というようなものを想定すれば、話は別であるが……。
 ガーゴイルや怪物達のことについては、酒井がフランスにおけるゴシック・リヴァイヴァルについて触れるときに立ち返る。


建築としてのゴシック(7)

2019年01月16日 | ゴシック論

●酒井健『ゴシックとは何か』①
 馬杉宗夫の『パリのノートル・ダム』はどんなに建築についての精緻な叙述を重ねても、〝ガイドブック〟にすぎないが、ジョルジュ・バタイユ研究者である酒井健の『ゴシックとは何か』はヨーロッパ中世精神史のエスキースと言っても過言ではない。サブタイトルに「大聖堂の精神史」とあるが、看板倒れになっていない。
 第一に『ゴシックとは何か』は、我々がヨーロッパ中世に対して持っているイメージ、暗黒時代とか迷妄の時代とかいうイメージを払拭し、新たに自然とキリスト教徒の関わりの中に置き直してくれる。酒井が提出する中世のイメージは、どこまでも鮮明で強固である。
 酒井は若いときに北フランスのボーヴェで、世界一高い天井を持つゴシック大聖堂を見て以来、ゴシック大聖堂に取り憑かれたというが、私もまた若いときにノートル=ダム・ド・パリに接していれば、そうなっていたかも知れない。それほどにゴシック大聖堂の呪縛力は強く、ジョルジュ・バタイユは『ランスの大聖堂』を書いているし、J・K・ユイスマンスはシャルトル大聖堂をテーマにした『大伽藍』を書いているのである。
 酒井のゴシック熱はしかし、ヨーロッパというものを知るという根本的な問題意識に結びついている。酒井はルネサンス期イタリアの美術史家ジョルジォ・ヴァザーリのゴシック批判を引用して次のように言う。

「秩序や比例を無視した昇高性・過剰さというゴシックの根本的特徴、そこには自然界の豊饒なエネルギーに対する中世人の感受性が読み取れるのだが、……(以下略)」

 この一文が本書を貫く基本的テーマとなる。酒井は『ゴシックとは何か』を自然についての分析から始めている。そこにゴシックの淵源があるというのである。酒井は11世紀初め頃の北フランスは広大な森に覆われていたと言い、次のように説明する。

「平地林は恐ろしい。見晴らしがきかないため、自分が今どこにいるのか、どこを歩いてきたのか、さっぱり分からないからだ。おまけに、狼、野盗、無法者が、木の背後の暗闇に跋扈している。」

 このイメージは強烈である。山岳地帯の森林ならばまだ見通しがつくが、平地に林ではそうはいかない。我々が現在の平野部について抱くイメージとはまったく違っていて、これが北フランス中世の原風景ということになる。そしてこの深い森のイメージはゴシック大聖堂の高い柱から伸びるアーチ型曲線の中に生きている。また林立する多くの尖塔は北フランスの森を覆っていた高木の落葉広葉樹のイメージそのものなのである。
 さらに酒井はこの頃まで続いていた異民族の侵略を挙げる。北フランスの中世人達は絶えざる恐怖の中で生活していたのである。こうした恐怖は、いつかこの苦労も報われ、悪しき者は地獄へ、善き者は天国へと導かれるというキリスト教の《最後の審判》によって、救われるものと考えた。《最後の審判》の図像はゴシック大聖堂を飾っていて、パリのノートル=ダム大聖堂の正面の三つの扉口の中央が《最後の審判》になっているように、ゴシック大聖堂のすべての正面中央は《最後の審判》の扉口になっているのである。最後の審判というものが北フランスの中世人の心を捉え、それが中心思想になっていく原因を、酒井は異民族の侵攻に見ているわけである。
 異民族の侵攻も終わり平和な時代がやってくると、気候の温暖化にも恵まれて人々は森林を切り拓いて農地を造る開墾の作業を盛んに行うようになる。11世紀半ばから1300年にかけて、フランス全土の6割強を占めていた森林はわずか2割にまで減少する。
 その中心的役割を果たしたのが修道士達で、彼らは神的な霊魂を持たない自然を征服することに何の疑問も持たなかった。こうして農業革命がもたらされ、穀物生産量は飛躍的に向上していった。食糧事情が良くなれば人口が増加することになるが、人口の増加率は食糧の増産率をはるかに超えていたため、飢餓の恐れが解消されることはなく、農民達はさらなる開墾に駆り立てられていった。
 一方、農業生産の効率化は農村の余剰人口を生み出し、彼らは農村から都市へと移住していく。これが大聖堂建立の背景となる。酒井は次のように書いている。

「農村域では背に腹はかえられず声域の森林を次々に滅ぼしてゆき、都市部では、これまた食いぶちを求める者たちが、異境の自然信仰をかかえながら、次々に移り住んできた。ゴシック大聖堂はこのような自然の消滅、人口の移動という大きな歴史の変化を背景に、都市のなかに建てられていったのである。」

酒井健『ゴシックとは何か――大聖堂の精神史――』(2006、ちくま学芸文庫)

 


建築としてのゴシック(6)

2019年01月15日 | ゴシック論

●馬杉宗夫『パリのノートル・ダム』①
 さて、ここからはパリから帰ってからのおさらいの過程について書いていくことにする。パリのノートル=ダム大聖堂に、生まれて初めて建築物の美しさというものを感得した私は、帰ってから多くの関連書を読みあさることになった。
 ざっと挙げておくと、馬杉宗夫『パリのノートル・ダム』、酒井健『ゴシックとは何か』、ジュール・ミシュレ『魔女』、J・K・ユイスマンス「ノートル=ダム・ド・パリにおける象徴表現」、ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』、J・K・ユイスマンス『大伽藍』などである。
 ミシュレの『魔女』は直接にゴシックやゴシック大聖堂について書かれた本ではないが、中世の歴史を描いてその時代背景はゴシックの時代と一致しているし、キリスト教の暗部を剔抉して、ゴシックの時代を否定的にみる歴史観について知る必要を感じたから読んだのである。
 馬杉宗夫の『パリのノートル・ダム』はゴシック建築についての入門書と言える。「ノートル・ダム・ド・パリのすべてを描く日本初のガイドブック」と謳っているが、もし本当にこの本が出版された2002年までこのようなガイドブックがなかったのだとしたら、パリの観光名所としてこれほど有名な建物について、日本人は詳しく知る機会がなかったことになるが、本当だろうか。
 この本は建築物としてのノートル=ダムに焦点を絞っているから、分かりやすいだろうと思っていたのは大間違いで、特に彫刻についての分析などは聖書の知識がないととてもついて行けないのである。しかし、当時の建築とは彫刻や図像も含んだトータルなものであり、それらが単なる装飾的な要素に止まるなどということはあり得ない。
 だから無神論者で聖書について何も知らず、キリスト教美術についてもほとんど興味がなく、ルーブルでイタリアの宗教画のコーナーをすっ飛ばすような私には、ノートル=ダム大聖堂について知る資格すらないと言ってもよい。
 しかし、パリのノートル=ダム大聖堂を通して歴史について語っている部分は、不十分ながら基礎的な知識を得るためには役に立つ。ゴシックについて考えるときに、パリの歴史、大聖堂の歴史を踏まえないと何も得るところがないからである。
 第一に知っておかなければならないことは、ノートル=ダムというのは聖母マリアに捧げられた教会の意味であって、それはパリだけでなく他にいくらでもあるということだ。フランスのゴシック大聖堂として有名なラン大聖堂、シャルトル大聖堂、ランス大聖堂、アミアン大聖堂など、みな聖母マリアのための教会であり、ノートル=ダム寺院なのだ。だからパリのそれを言うならこの本のタイトルのように〝パリのノートル・ダム〟と言わなければならないし、ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』もまたパリのそれに限定しているのである。
 またこれらの大聖堂がすべてゴシック建築であることから、ゴシックの時代に建てられた大聖堂のほとんどが聖母マリアに捧げられていること、そして聖母信仰がゴシック中世の中心的な信仰の形であったことが分かる。キリスト教自体にもともと聖母信仰があったわけではなく、むしろそれは異教的な要素であったにも拘わらず、ゴシックの時代には聖母信仰が蔓延していたことになる。
 また大聖堂(cathedral)というのは〝大きな聖堂〟という意味ではなく、〝司教座聖堂〟のことであって、司教座のある都市に建てられた教会を意味している。司教のいないところに大聖堂はないのである。パリもまたそうした司教区の一つであった。
 パリ発祥の地はシテ島である。経済的発展によって12世紀頃から人口の都市集中が進み、大聖堂は都市の庶民のために建てられたものだという。もともとキリスト教徒ではない者もたくさんいて、彼らを一堂に集めて教化するための教会でもあった。だから都市に住んでいるすべての人々を収容する大きさがなければならなかった。
 パリのノートル=ダムも当時の人口10,000人ほどを収容できる大きさを持っていた。また大聖堂はキリスト教の庶民信仰への妥協の歴史とともにあって、マリア信仰もその一つなのである。キリスト教以前のアニミズムの地母神崇拝が、マリア信仰に直結していくという構造は非常に分かりやすいものではないか。
 そして大聖堂の彫像やステンドグラスは、文字を知らない庶民にキリスト教の教えを広めるために作られた絵解きのようなものであって、すべてそこには意味があり、キリスト教布教のための大きな役割を果たしたのである。
 馬杉の本は彫刻や図像を扱うと、聖書の知識を持っていないものにとっては、とたんに分かりづらくなるので、ここまでにしておく。基本的な知識さえ得られればよい。
(この項おわり) 

セーヌ川の船から見るノートル=ダム・ド・パリ

馬杉宗男『パリのノートル・ダム』(2002、八坂書房)


建築としてのゴシック(5)

2019年01月14日 | ゴシック論

●ノートル=ダム・ド・パリ⑤
 さて大きな目標を果たし、今度は北塔の螺旋階段を一気に下りる。登るのは死ぬ思いだったが、下りるのは楽である。時折開いている窓から外の風景を眺め、自分が今いる高さを確認しながら下りるのである。今度はあっという間に下界へ。
 建築物としてのノートル=ダムの美しさを知ってしまった以上、大聖堂の周囲を一廻りしないわけにはいかない。北側の通りに向かい、右回りに一周することにした。そこで私はゴシック建築の神髄を見るとともに、大聖堂の美しさを別な角度から再確認することになる。

北側の扉口

 北側の通りは狭いので引いて見ることができず、建物を見上げる格好になる。私は十字架の交差部が張り出した北側の扉口部分のゴシック建築らしい構造に息を呑んだ。正面の景観はゴシック特有の尖塔を持たない設計のために、ゴシック的とは言えないが、脇に廻ればこれぞ典型的なゴシックという感じなのだ。
 扉口上の半円形が先端でとがっているのは正面と同じだが、その上に二等辺三角形の突出部が付けられている。それはまるで、これから巨大な尖塔へと成長、上昇していく意志をさえ感じさせるもので、上昇性を基調とするゴシックの精神が具現化されている。
 その上には巨大なバラ窓があり、内側からステンドグラスの光を通して見るよりも、私はこの方が好きだ。宗教性を離れて純粋に建築として鑑賞することができるからだ。幾何学的な美しさもそこにはあり、扉口からバラ窓まで全体として天に昇っていくような上昇感がある。

北側扉口から内陣方向へ

さらに内陣の方向へと進むと、縦長の窓枠に合わせた一定の単位が横方向に繰り返されていく。窓枠もまた先端のとがった半円形の上に二等辺三角形の突出部が尖塔へと成長する意志を見せている。ここでもステンドグラスの宗教性を離れて見る開口部はどこまでも神秘的である。
 後陣に廻る途中に大きな鐘が二つ置いてあった。この二つの鐘はすでにリタイアした鐘だということだ。後陣の周辺には公園が広がっているが、鉄柵に囲まれていて中に入ることはできない。柵越しに後ろから大聖堂を見ていると、正面の印象とはまったく違った世界が開けてくる。

ノートル=ダム後陣

 後陣から見た大聖堂はまるで蟹か蜘蛛の脚を付けた怪物のようにさえ見える。この蜘蛛の脚のようなものはフライング・バットレス(飛梁)といって、ゴシック建築の天井の高いアーチ型構造を外側から支え、補強するための仕組みなのである。
 このフライング・バットレスが大聖堂の後陣に一見グロテスクな印象を与えているし、近くに寄ってみたらいかにも苦肉の策といった感じの不自然さを感じるかも知れないが、しかしそれがなければ裸にされたような頼りなさを感じるのであろうし、遠景で見ればバランスの中に保たれた美しさを感じないでもないかも知れない。とにかく正面のイメージと後陣のイメージはまるで違っているのである。
 セーヌ川を渡る手前に公園への入り口があったので、ここからなら入れるだろう、今度は南側を至近距離で観てやろうと思ったが、治安対策のために公園の鉄柵は固く閉ざされていた。残念ながら近くで見ることはできないとあきらめて、セーヌ川をアルシュヴェシェ橋で渡り、迂回して遠望することにした。


セーヌ川越しに見るノートル=ダム

 ところが橋を渡ってセーヌ川越しに見るノートル=ダム大聖堂は、この上もなく美しく壮大な調和の中にそびえ立っていたのである。ノートル=ダムは街のど真ん中に建てられていて、全貌を一望するポイントは限られている。それがこのポイントなのだ。絵はがきにもここから見た大聖堂が多く使われていて、セーヌ越しのノートル=ダムが最も美しいのだと知った。
 しばらく斜め後ろから見た大聖堂にうっとりしながらセーヌ左岸を歩き、プチ・ポンを渡って大聖堂の正面に戻った。その頃にはすっかり日も暮れて、大聖堂には照明が灯されていた。かなりの時間私は、ノートル=ダム周辺にいたことになる。私はもう一度ここを訪れてもいいと思っていた。
(この項おわり)


建築としてのゴシック(4)

2019年01月13日 | ゴシック論

●ノートル=ダム・ド・パリ④
回廊の怪物達の他にノートル=ダム大聖堂には、ガーゴイル(フランス語でガルグイユgargouille)というものがあって、こちらはパリのノートル=ダムだけのものではなく、ゴシック大聖堂にはつきものの怪物像であり、私が11月15日に訪れたサン=ジェルマン=アン=レー城にもそれはあった。
 ガーゴイルはキマイラ達とは違って実用的な役割を果たしている。つまりそれは雨樋なのだ。石造建築の場合雨が壁を伝って流れ落ちていると、長い間に石と石を接着している漆喰が溶けてきて建物の崩壊にもつながりかねないため、壁面から長く突き出た形の雨樋によって、雨を直接地面に落とす工夫が必要になる。
 それが奇怪な動物や悪魔のような人間の像の形になったものがガーゴイルである。ノートル=ダム大聖堂にも無数のガーゴイルがあるが、私はそれを横から眺めるポイントを失してしまい、下から見上げる角度でしか写真に撮っていない。これではなんだか分からない。


口の空いている方向が下

 キマイラにしてもガーゴイルにしても、人間の想像力をグロテスクの方向へ総動員したような形象は、あまりにもキリスト教のイメージとは食い違っている。それはいったいなぜなのかと考えることは一つのテーマではあるが、キリスト教の歴史にも、ゴシック大聖堂の歴史にもまったく通じていない私には考えてみようがない。
 ただこうしたグロテスクな想像力が、カトリックの教会においてなされていることは特徴的なことだし、私には正統なる彫像よりもむしろキマイラやガーゴイルの方に興味があったことは言っておかなければならない。
 キマイラの回廊は南の塔へと続いていて、途中二つの塔の間から後陣の方向を見渡すことができる。ここでは塔の外壁に施された無数の彫刻を見ることができるし、聖堂の屋根と後陣の端にそびえ立つ大きな尖塔も見ることができる。


キマイラの回廊から塔の側面と聖堂の屋根を見下ろす

 私はこのあたりからノートル=ダム大聖堂の建築物としての美しさに初めて目覚めることになってしまう。息を呑むばかりの美しさとはこのことで、私がこれまで建築に興味が持てなかったのは、それに美しさを感じることがなかったからなのだということに気づいたのだ。
 それほどに垂直に伸びる北塔側面のデザインは美しく、彫刻もまた華麗を極めていた。後陣の尖塔は透かし彫りのようになっていて、私には恐竜の骨格標本のように美しいものに思われた。この尖塔こそがゴシック建築の大きな特徴の一つであるが、ノートル=ダム大聖堂ではこの垂直的なイメージを代表する尖塔が大きなものはこれ一つしかない。

塔の基部に配置されているのは十二使徒像

 ゴシック建築の発祥の地はフランスであり、パリのノートル=ダム大聖堂は初期のゴシック建築の代表作と言われている。そこにはゴシック以前のロマネスク建築からゴシック建築への移行の過程が読み取れるというが、そのような知識は帰ってから得たものであって、その時の私は無知故の感動に浸っていたのだった。
 見学ルートはまだ続くのである。南塔の手前を左に折れて、階段を登るとそこは鐘楼である。複雑に組み合わされた木材の間に大きな鐘が見える。17世紀に造られた13トンの「エマニュエル」と、2013年に設置された6・2トンの「マリー」の二基の大鐘である。こんなものをクレーンもない時代にどうやって持ち上げたのだろう。
 キマイラの回廊に戻って南塔の頂上に出る螺旋階段をさらに登る。頂上は69メートルというから、回廊からさらに23メートルもある。ここで南塔の周りを一周するのである。
 北東の側面はさらに角度がついて眺められるようになるし、後陣の尖塔すら見下ろす高さである。ここを一周すればパリの全貌を360度見渡すことができる。このころには自分が高所恐怖症であることなどすっかり忘れていて、ノートル=ダムとパリ市街の展望の美しさに圧倒されていたのだった。

南塔頂上から北塔を見下ろす

ノートル=ダムからパリ市街を展望(左遠方にエッフェル塔)

 

 


建築としてのゴシック(3)

2019年01月12日 | ゴシック論

●ノートル=ダム・ド・パリ③
 Conciergerieを過ぎてまっすぐ進むと、右手に植木市のようなものが見えてくる。面白そうだと思って寄り道することにした。右に折れて細い道に入る。なかなか大規模な植木市で常設だという。花の季節は過ぎていたとはいえ、品揃えも豊富で花は日本のものとそれほど違いはない。パリに来てこんなところを散策しようとは思わなかった。
 花だけでなくサボテンもあれば花卉もあり、園芸用品も充実している。ゆっくり見たかったが買って帰るわけにも行かない。植木市を抜けると三叉路に突き当たって、左に曲がりしばらく歩くと広い通りに出る。大きな病院の建物の側面に出る。この病院はパリ最古の病院だそうで、ヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』にも、パリ市立病院として名前が出てくる。最後の襲撃シーンで負傷者が担ぎ込まれる病院である。つまり15世紀にはすでにこの病院はあったということだ。
 この病院を左手に見て建物の角を左折すれば、目的のノートル=ダム大聖堂だと地図で確認してある。左に曲がると前庭とその奥に大聖堂の正面が見えてきた。双塔の威容を誇るあのノートル=ダムである。
 私は教会自体に興味があったわけではなく、塔の上に配置されているというキマイラ達を見たいという気持ちで来ているので、大聖堂の正面を見て格別の感慨に浸った記憶はない。ただ、「とても立派な建物だな」と思い、「はるか遠くの国から来たんだな」という思いであったに過ぎない。


夕刻となり大聖堂に別れを告げる時に撮った正面写真

 まず、右側の扉口(聖女アンナの扉口、アンナは聖母マリアの母)から聖堂内部に入り、左から右回りに見て廻った。しかし、私は内部では写真を一枚しか撮っていない。私は無神論者であり、神も仏も信じていない。だから聖堂内部も美的な観点からしか鑑賞することができない。正面と北側、南側にあるあの巨大なバラ窓のステンドグラスの美しさや、ゴシック建築特有の途方もなく高い天井には驚嘆したが、各所におかれた聖人達の彫像や内陣最深部の聖母像などに特別の興味を覚えることもなかった。
 とにかく早く塔の上に登りたいという気持ちにせかされて、聖堂内部には30分もいなかったかも知れない。一旦外に出て正面左側(北側)にある塔の登り口に向かう。北側の歩道には行列ができていて人々が順番を待っている。私は行列に並ぶのが大嫌いなので、大聖堂を一周しようと思いそのまま進みかけるが、すぐに順番が来るのが分かって、先に塔に登ることにした。
 キマイラの回廊は地上46メートルの地点にある。13階建てのビルほどの高さである。エレベーターなどは無論ない。狭い螺旋階段をひたすら登るしかないのである。こちらはルーブル美術館で3時間は歩き、ルーブルからここまで30分近くは歩いてきた身である。登りながら途中、目的を完遂できるのだろうかと危ぶんだこともあったが、後ろからも続々と登ってくるから立ち止まって休むことができない。
 途中小さな窓が(と言うよりも石の穴)時々開いているだけの薄暗い階段をひたすら登っていく。何度も「もう限界だ」と思い、息が苦しくなり、顔面が蒼白になって、足が止まりかけたこともあったが、ようやく最初の踊り場にたどり着いて一息入れることができた。後で図面を見ると地上から一気に35メートル地点まで休まずに登ったことになる。
 生気を取り戻してさらに10メートルの階段を登り、なんとかキマイラの回廊にたどり着く。回廊は極端に狭く人一人通るのがやっとで後戻りもできない。極度の高所恐怖症の私は、身動きできなくなるのではないかと怖れていたが、回廊の上部にまで張りめぐらされた丈夫な金網が恐怖をやわらげてくれる。結局最後まで高所恐怖の発作(本当に身動きできなくなる)に襲われることはなかった。


こんな獰猛な怪物も

 怪物達は回廊から突き出た展望台の角かどの欄干に置かれている。不思議なことに彼らは皆下を向いている。中には身を乗り出して下界を覗き込んでいる怪物もいる。どう見ても彼らは大聖堂を悪魔の手から守っているというのではなくて、我々人間を観察し、あるいは我々に対して威嚇の姿勢をとっているようにしか見えない。
 お目当てのメリヨンの〈吸血鬼〉のモデルとなった彫像もすぐに見つかった。この像だけはそれほど威嚇的ではなく、下界を見下ろしながら沈思黙考しているように見える。両肘を欄干の手すりに載せ、顎を両掌で支えている。どう見ても思索者のスタイルであり、塔の高みから下界の人間共の愚行を見届けてやろうという意志さえ感じられる。
 そうでなければメリヨンがこの像を銅版画に刻むことはなかったであろう。しかし、メリヨンの銅版画に比べて実物は荒削りで繊細さに欠ける。メリヨンはこの像に自分自身の壊れやすい魂を吹き込んだのである。

メリヨンの〈吸血鬼〉 

メリヨンの版画には見えるサン・ジャック塔が写っていない


建築としてのゴシック(2)

2019年01月10日 | ゴシック論

●ノートル=ダム・ド・パリ②
 ルーブル美術館で目についたのも中国人の団体だった。彼らは館内の超有名作品、レオナルド・ダ・ヴィンチの〈モナリザ〉であるとか、ミロのヴィーナス像、あるいはサモトラケのニケ像の周りを集団で囲んで、スマホで写真を撮りまくっている。
 彼らはそれだけ見て写真に撮ればいいのだろう。美術館を訪れるどんな意味があるのだろうと思ってしまったが、ルーブルもフランスにとっては観光の目玉、中国人の団体はありがたい客なのだろう。
 中庭に出ると中国人達がミロのヴィーナスごっこをしている。一人が台座の上に立ってポーズをとり、他の仲間達がルーブルの建物を背景に写真を撮っているのである。さて、暑くなってきた。とても11月とは思えない。皆さんコートを脱いでいる。
 ルーブルの喧騒を逃れてノートル=ダム寺院に向かうことにする。カルーゼル広場から敷地を抜けて、セーヌ川右岸のフランソワ・ミッテラン通りへ。とうに昼を過ぎていてお腹もすいてきたのだが、重いものを食べる意欲もなくて、カフェに入ってクレープ・サラダとアイスクリームを注文する。
ヨーロッパではどこでもそうらしいが、一人あたりの量が多い。サラダもアイスクリームも優に二人前はある。我々日本人と違って体も大きいから、食べる量も多いのだ。で味の方はどうかというと、決してまずいわけではないが大味で繊細さがない。どこのレストランでもそんな感想を持った。本当に美味しい料理は星のついたレストランで、大枚をはたいて食べるしかないようだ。
 右手にポン・デ・ザール(芸術橋)を眺めながら、シテ島を目指す。ポン・デ・ザールは鉄製の橋で、近代的だが美しい橋である。このあたりから川岸の通りで風景画を売る画家達の姿が多くなる。どこもかしこも絵になるのだ。パリは芸術の都と言われるが、パリの中に芸術があるのではなくて、パリ全体が芸術なのだ。


これが私がパリで撮った一番の写真となった

 ルーブル通りにさしかかるあたりで一枚写真を撮った。セーヌの岸辺に降りていくカップルの後ろ姿が写っている。右に見える濃緑色のゴミ箱みたいなものが何なのか、その時には分からなかったが、後でこれが有名なセーヌ河岸の古本市の店舗兼倉庫と知った。
 左側に写っている幹の白い木は、葉っぱがポプラに似ていたから「ヨーロッパのポプラは幹が白いんだ」と思っていたが、多数の幹が根元から分岐して立ち上がっているところを見ると、ポプラではないようだ。
 しばらく歩くとポン・ヌフにさしかかる。ポン・ヌフは〝新橋〟の意味だが、17世紀初めに完成したパリで最も古い橋としてよく知られている。この橋を通ってノートル=ダム大聖堂のあるシテ島に渡るのだ。多くの画家がこの橋を作品に残していて、シャルル・メリヨンもまた一枚残している。


メリヨンの〈ポン・ヌフ〉

 古くは橋の上に家が建てられていたというが、メリヨンの作品にそれは見えない。19世紀初めの他の画家の作品に、橋上の建物が描かれている作品が確かにある。かなり広い橋だからそんなこともあり得たのだろう。メリヨンの版画にはひたすら頑丈そうな橋脚の上、橋桁に突き出た建造物が見えるが、今はそれはない。数日後に船でこの橋の下をくぐることになるが、石造りの見るからに頑強そうな橋で、400年もっている理由がよくわかる。

現在のポン・ヌフ

ポン・ヌフはシテ島の西の端、ちょうど船の舳先のようになっている狭い部分をかすめてセーヌ川を横断している。島に上陸して右に行こうか左に行こうか迷ったが、わざと遠回りすることにして、左の岸辺の通りを進む。
 見えてきたのは大変いかめしい作りの巨大な建物で、La palais de justice de Parisと書いてあるので、裁判所かなと思っていたが、後で調べるとやはりフランスの主要司法機関が入った総合庁舎のようなものと分かった。
 La palais de justice de Parisを迂回して左に進むと、Conciergerieと書かれた宮殿風の建物の前を通る。「面白い名前だな」と思っていたが、これも後で調べるとフランス革命時代の牢獄で、マリー・アントワネットが処刑の前まで収監されていたところと分かった。アントワネットはともかく、マルキ・ド・サドも1ヶ月間収監されていたところでもあり、有名なバスチーユ監獄はもうないのだから、見学すればよかったと後で思った。きちんと調べておかないからこういうことになる。


 


建築としてのゴシック(1)

2019年01月09日 | ゴシック論

●ノートル=ダム・ド・パリ①
 これまでのゴシック論はゴシック小説としてのゴシック、つまりはイギリスにおけるゴシック・リヴァイヴァルのきっかけとなった、ホレース・ウォルポールの『オトラント城奇譚』に始まる小説のジャンルをめぐって書いてきた。時代は18世紀後半以降ということになる。
 これから書こうとしているのは建築としてのゴシックで、これがゴシックの本来の意味であり、時代的にはヨーロッパ中世後期、12世紀から15世紀にわたる期間である。
 これまでケネス・クラークの『ゴシック・リヴァイヴァル』についてほんの少し触れただけで、建築のことをテーマにしなかったのは、もともと私がそれほど建築に興味がなかったことと、本物のゴシック建築を見たことがなかった(私は昨年までヨーロッパに行ったことがなかった)からであり、興味の対象が文学としてのゴシックに限定されていたからである。
 昨年11月9日から20日の日程でパリに旅行したが、目的は三つあった。一つはアメリカのブルース・シンガー、ベス・ハートのコンサートを聴くこと、もう一つはパリのノートル=ダム大聖堂を訪れて、塔の回廊に並んでいるというキマイラ達(フランス語でシメールChimere)に会うこと、三つ目はパリに多く残るパサージュ(今で言うアーケード街)を歩いて、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』について考えることであった。
 最後の目的はパリ初日からものの見事に崩壊した。私が宿泊したオペラ座近くのホテル周辺に古いパサージュはいくつか残されていたのだが、あまりに綺麗で近代化されており、ベンヤミンが亡命のようにしてパリに滞在していた頃に訪れたパサージュのイメージが、ほとんど感じられなかったのがその原因の一つであった。


Passage des Panoramas

 ちょっとパリを訪問しただけの私にはとても、パサージュを思索の手がかりにして都市論や歴史論を展開するような力があるはずもなかったのである。パサージュは極めて居心地のいい場所で、今日ではおしゃれな買い物スポットでしかなかった。
ひとつ目の目標については十分に達成し、このブログの「日記」に長々とマニアックに書いた。二つ目のノートル=ダムについては建物そのものよりも、キマイラ達とりわけ銅版画家シャルル・メリヨンが描いた〈吸血鬼〉が昔から大好きで、このブログのプロフィールに使っていることもあり、そちらの方を見たかったというのが本音であった。
 まずパリのノートル=ダム大聖堂訪問について書かなければならない。それが私の建築に対する無関心の蒙を啓いてくれたからである。帰ってからヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』を含めて、様々な本を読み知識を得ると同時に、いろいろと考えさせられた。
 ノートル=ダム訪問記はだから、事後的な知識を含めて書かざるを得ないし、そうすることで建築だけでなく文学や思想についての思索につなげていくことができるのではないかと思っている。

その日11月14日は晴天で、11月とは思えぬくらい気温も高かった。午前中ルーブル美術館を見学し、午後からノートル=ダムに足を伸ばし、夕刻にノートル=ダム大聖堂の近くにあるサント・シャペル礼拝堂前で友人夫妻と待ち合わせをするという予定を立てた。

ルーブル美術館の外観


 ルーブル美術館の印象は薄い。あれだけ膨大な美術品を駆け足で廻って見たところで、深く鑑賞などできようはずもない。私は3時間かけて廻ったが、印象に残っているのは18世紀の画家ユベール・ロベールの15点ほどの作品に過ぎない。
 ユベール・ロベールは想像の廃墟ばかりを描いた画家で、ルーブルのグランド・ギャラリー(ここにはイタリアの宗教画ばかりが無数にあって食傷気味だった)の天井からの自然採光は彼のアイディアだったという。ロベールがルーブルのグランド・ギャラリーを描いた二つの作品があって、一枚は完成予想図のようなもの、もう一枚は時代が経って廃墟と化したルーブルの同じ場所を描いた作品である。芸術の永遠性をテーマにしていると言われているが、どうしてもルーブルを廃墟にしてみたかったのだろう。廃墟を描いて彼は確信犯だったのである。

 

グランド・ギャラリーの完成予想図と廃墟図(ピンぼけですが)


「北方文学」78号発刊

2019年01月02日 | 玄文社

「北方文学」78号が発行になりましたので、ご紹介します。先号が244頁で、それでも最近では薄い方でした。このところ300頁前後の号が続いていましたが、久しぶりに100頁台に落ち着きました。
 編集後記に書きましたが、77号発行後同人の入院が相次ぎ、書きたくても書けないという状況がありました。特に大井邦雄の4カ月にわたる入院とその後の療養生活は、グランヴィル=バーカーの『オセロー序説』訳述の連載を中止のやむなきに至らせました。次号からの復帰を祈るばかりであります。
 巻頭は長編小説の連載を続けてきた魚家明子の詩「ねむりの意味」。もともと詩人として活躍してきた彼女ですが、「北方文学」に詩作品を発表するのは初めてです。今号表紙絵の北條佐江子「眠り」に呼応するかのようなタイトルです。しかし、「ねむりの意味」は魚家の身体感覚のようなものに貫かれています。ある意味ではエロティックな……。詩と小説の両方を高い水準でこなす彼女の才能に賛辞を送りたいと思います。
 続いて、館路子の死が二編。「水滴を編む、その生きものは」は短く、次の「朔風の時まで夜を籠めて」はいつもの長詩で、どちらも蜘蛛をモチーフにした作品です。このところずっと動物を素材にした作品を書き続けている彼女らしい作品です。不気味な上臈蜘蛛の姿が、館の巧みなレトリックによって、この上もなく美しいものに変貌していきます。
 評論のトップは徳間佳信の「泉鏡花、「水の女」の万華鏡(一)」です。彼が偏愛する泉鏡花についての論考の序章ということになります。まずは宣言。徳間は泉鏡花の作品を文学理論の構築に利用するような強引さも、あるいは逆に現実の生活に還元するような立場も同様に否定します。そうではなく「作品分析を通じてその魅力を語ること」を目標として鏡花論は始まるだろう。次号から個々の作品論に入ります。テーマは「水の女」楽しみです。
 柴野毅実の「ベンヤミン――ボードレール――文化人類学」というタイトルは、ありそうもない組み合わせになっていると思われるかも知れないが、読んでみると決してそうではないことが分かります。〝ゴンゾー人類学者〟ことマイケル・タウシグの『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』の紹介です。
 鈴木良一の「新潟県戦後五十年詩誌史」の「隣人としての詩人たち」も12回目となります。先号に続いて70年代前半を扱うが、高度経済成長と学生運動の時代を背景に県内詩人達の動静を探ります。現存の詩人達の登場で俄然面白くなってきた鈴木の詩史も、この頃から資料も特に多くなって詳述を強いられるでしょう。細かく読んでいくことで面白みはさらに増すのです。
 福原国郎の「凋落」をジャンルとしてはなんと呼べばいいのでしょう。一応「史伝」として位置づける。彼が続けてきた先祖の記録を読み解いての歴史の再現です。福原の祖父、信治郎の生涯をたどります。これが小説のようにめっぽう面白い。これまでで一番読みやすく、面白いことを請け合います。
 続いて小説が二本。先に新村苑子の「新しい朝」。久しぶりに新潟水俣病というテーマに戻っての作品です。新村は新潟水俣病に関わる差別と偏見のあり方を執拗に描いてきましたたが、今回の作品もその延長線上にあります。このような小説は彼女にしか書けないでしょう。
 ラストは魚家明子の「眠りの森の子供たち(五)」で、これで一大長編小説の連載を終わります。最後はトリッキーな部分もありますが、これまで積み重ねてきた伏線を最大限生かして、壮大なコーダとして終わります。それにしても彼女の描く登場人物たちのなんと魅力的だったことか。お別れが辛いという気持ちを抱く人も多いことでしょう。お疲れ様でした。

目次を以下に掲げます。

魚家明子*ねむりの意味
館 路子*水滴を編む、その生きものは
館 路子*朔風の時まで夜を籠めて
徳間佳信*泉鏡花、「水の女」の万華鏡(一)
柴野毅実*ベンヤミン――ボードレール――文化人類学
--マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』を起点に--
鈴木良一*新潟県戦後五十年詩史 隣人としての詩人たち<12>
福原国郎*凋 落
新村苑子*新しい朝
魚家明子*眠りの森の子供たち(五)   

お問い合わせはgenbun@tulip.ocn.ne.jpまで。