●ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』⑥
ユゴーはユイスマンスと違って、石造建築が教会を建てる時に、教義や宗教的象徴だけを表現するに止まるものではないことを強調する。そうでなければ建築物は〝石の聖書〟ではあっても〝石の書物〟ではあり得ない。
中世を例にとってユゴーは言う。ロマネスク建築はキリスト教の権威や法王による統一の下にあり、民衆的要素のまったくない冷徹なものであったが、ゴシック建築は違う。それをもたらしたのは交差リブを持ち帰った十字軍であり、十字軍に参加した各国民はそれだけでなく、十字軍から自由を持ち帰ったというのである。ゴシック建築はそのような自由の象徴であると言わんばかりである。
ユゴーはこのように十字軍の運動というものを、まったく肯定的に捉えているが、同時代のジュール・ミシュレは『魔女』で、十字軍の時代から魔女受難の時代が始まったということを言っている。イスラム世界から富の強奪を行った十字軍が、ヨーロッパ世界に経済的恩恵をもたらし、拝金主義的な傾向が起こったことが魔女狩りの背景をなしているという、まことに筋道の通った議論をミシュレは行っている。しかし、今それを参照している余裕はない。
それよりも、ユゴーの歴史観の単純さをここでは指摘しておくべきだろう。ユゴーは「地上のあらゆる文明は神政政治ではじまって、民主主義で終わりを告げる。統一のつぎに自由がくるというこの法則は、建築にも現れている。」と言っているが、このことがゴシック建築を民主主義と自由とに関連させて捉える論拠となっている。
この極めて啓蒙主義的な考え方はあまりにも楽観的で、とても承服することはできないが、しばらくはユゴーの議論に付き合ってみよう。自由がもたらしたものが何であったかという議論である。ユゴーは次のように言っている。
「かつてはあれほど専横であった大聖堂も、それ以後、市民や自治体や自由思想に侵略され、聖職者の手からすべり落ちて、芸術家の手に握られるようになった。」
本当に中世の時代に自由思想による宗教への侵略などというものがあったのか、あるいは芸術家に聖職者以上の実権があったのか大いに疑問だが、ユゴーが挙げている事実そのものは疑うことができない。
ユゴーが挙げているのは、パリ裁判所暖炉の間のあられもいない格好で抱き合う修道士と修道女の像であるとか、ボシェルヴィル修土院の洗面所に描かれた信者達をあざ笑う酔っぱらい修道士であるとかである。この事実からユゴーは次のように言っている。
「石で書かれる思想には、今日の出版の自由とまったく替わらない自由の特権が与えられていたのだ。これは「建築の自由」とも呼びうるものであろう。」
まったく脳天気と言うしかない。ロマネスク建築の時代との違いを言うなら、自由思想の勝利による教会の権威の失墜というよりも、都市の発展による今で言うポピュリズムの拡大ということなのではないか。古いカトリックのロマネスク教会の時代には、思想を表現するのはごく限られたエリートであり、知識人(それも聖職者に限定された)であったであろう。それに対してゴシックの時代には、思想表現の主体が市民層の範囲にまで広がっていったと言うべきだと思う。
とりあえずユゴーは印刷術というもののなかった当時は思想を表現する手段は建築によるしかなく、あらゆる思想表現が建築へと流れ込んでいったと言う。それによって無数のゴシック大聖堂がヨーロッパ全土を覆うようになったというわけだ。それに続く次のような結論に対しては、いくつかの留保はあるが、おおむねそうであったと認めてもいい。
「社会のあらゆる物質力とあらゆる知力が、建築という一つの点に集中してしまったのだ。そこで、神に捧げる教会を建てるのだという口実のもとに、芸術はすさまじい勢いで発展したのである。」