玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

建築としてのゴシック(21)

2019年02月02日 | ゴシック論

●ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』⑥
 ユゴーはユイスマンスと違って、石造建築が教会を建てる時に、教義や宗教的象徴だけを表現するに止まるものではないことを強調する。そうでなければ建築物は〝石の聖書〟ではあっても〝石の書物〟ではあり得ない。
 中世を例にとってユゴーは言う。ロマネスク建築はキリスト教の権威や法王による統一の下にあり、民衆的要素のまったくない冷徹なものであったが、ゴシック建築は違う。それをもたらしたのは交差リブを持ち帰った十字軍であり、十字軍に参加した各国民はそれだけでなく、十字軍から自由を持ち帰ったというのである。ゴシック建築はそのような自由の象徴であると言わんばかりである。
 ユゴーはこのように十字軍の運動というものを、まったく肯定的に捉えているが、同時代のジュール・ミシュレは『魔女』で、十字軍の時代から魔女受難の時代が始まったということを言っている。イスラム世界から富の強奪を行った十字軍が、ヨーロッパ世界に経済的恩恵をもたらし、拝金主義的な傾向が起こったことが魔女狩りの背景をなしているという、まことに筋道の通った議論をミシュレは行っている。しかし、今それを参照している余裕はない。
 それよりも、ユゴーの歴史観の単純さをここでは指摘しておくべきだろう。ユゴーは「地上のあらゆる文明は神政政治ではじまって、民主主義で終わりを告げる。統一のつぎに自由がくるというこの法則は、建築にも現れている。」と言っているが、このことがゴシック建築を民主主義と自由とに関連させて捉える論拠となっている。
 この極めて啓蒙主義的な考え方はあまりにも楽観的で、とても承服することはできないが、しばらくはユゴーの議論に付き合ってみよう。自由がもたらしたものが何であったかという議論である。ユゴーは次のように言っている。

「かつてはあれほど専横であった大聖堂も、それ以後、市民や自治体や自由思想に侵略され、聖職者の手からすべり落ちて、芸術家の手に握られるようになった。」

 本当に中世の時代に自由思想による宗教への侵略などというものがあったのか、あるいは芸術家に聖職者以上の実権があったのか大いに疑問だが、ユゴーが挙げている事実そのものは疑うことができない。
 ユゴーが挙げているのは、パリ裁判所暖炉の間のあられもいない格好で抱き合う修道士と修道女の像であるとか、ボシェルヴィル修土院の洗面所に描かれた信者達をあざ笑う酔っぱらい修道士であるとかである。この事実からユゴーは次のように言っている。

「石で書かれる思想には、今日の出版の自由とまったく替わらない自由の特権が与えられていたのだ。これは「建築の自由」とも呼びうるものであろう。」

 まったく脳天気と言うしかない。ロマネスク建築の時代との違いを言うなら、自由思想の勝利による教会の権威の失墜というよりも、都市の発展による今で言うポピュリズムの拡大ということなのではないか。古いカトリックのロマネスク教会の時代には、思想を表現するのはごく限られたエリートであり、知識人(それも聖職者に限定された)であったであろう。それに対してゴシックの時代には、思想表現の主体が市民層の範囲にまで広がっていったと言うべきだと思う。
 とりあえずユゴーは印刷術というもののなかった当時は思想を表現する手段は建築によるしかなく、あらゆる思想表現が建築へと流れ込んでいったと言う。それによって無数のゴシック大聖堂がヨーロッパ全土を覆うようになったというわけだ。それに続く次のような結論に対しては、いくつかの留保はあるが、おおむねそうであったと認めてもいい。

「社会のあらゆる物質力とあらゆる知力が、建築という一つの点に集中してしまったのだ。そこで、神に捧げる教会を建てるのだという口実のもとに、芸術はすさまじい勢いで発展したのである。」

 


建築としてのゴシック(20)

2019年02月01日 | ゴシック論

●ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』⑤
 第5編第2章「これがあれを滅ぼすだろう」に移る。この謎めいたタイトルは直前の第1章、お忍びでノートル=ダムのクロード・フロロのところへやってきた、サン=マルタン修院長ことルイ11世とのやりとりの中で、フロロが一冊の書物と大聖堂を見比べながら、「ああ! これがあれを滅ぼすだろう」と言う、その科白からきている。
〝これ〟とは書物を指し、〝あれ〟とは建物を指している。一面ではそれはグーテンベルクの印刷術を前にした聖職者達の恐れ、「ゆくゆくは知性が教義の足もとを掘りくずし、世論が信仰をその王座から蹴おとす」のではという恐れを意味している。つまり「印刷術は教会を滅ぼすだろう」ということである。
 もう一面ではそれは「じょうぶで持ちのよい石の書物も、さらにいっそうじょうぶで持ちのよい紙の書物に取って代わられる」ことへの予感、つまり「印刷術は建築術を滅ぼすであろう」ということなのだ。〝石の書物〟とは何か。それは建築物のことである。ここから建築に対する我々の常識的見解を覆す、ユゴーの議論が展開される。
 まずユゴーは石の建築の歴史をたどる。最初は一つの象形文字のような石柱であり、それが単語にたとえられるべき巨石墳や巨石碑に発展していく。さらにたくさんの石を組み合わせて文章としての大きな建物を、書物としての建築物をつくるようになっていく。次のようにユゴーは言う。

「建築術は人間の思想とともに発展したのである。建築は無数の頭や無数の腕をもった巨大な姿となり、永遠不滅の、目に見え手で触れることのできる形態のもとに、浮動するあらゆる象徴を定着させたのである。」

ユゴーはさらに続けて、

「こんなわけで、世界がはじまってから六千年のあいだ、太古のヒンドスタンの塔からケルンの大聖堂にいたるまで、建築は人類の書いた偉大な文字の役目を務めてきたのだった。これは少しも疑えない事実であり、宗教的象徴は言うまでもなく、人類が抱いたありとあらゆる思想は、記念碑や建築物の中に記入されていると言ってよろしい。」

 このような考え方は石の文化、石造建築の文化なしにはあり得ないもので、木造建築の文化の我々日本人にはちょっと発想できないものではないだろうか。象徴や思想を定着させるためには、それを表現する材料が堅固で長持ちするものでなければなら

ない。石造建築はそれにもっとも適したものであったと言えるだろう。
 だからユゴーの考え方はそれほど特異なものではなく、後のJ・K・ユイスマンスも「ノートル=ダム・ド・パリにおける象徴表現」で、彫像や図像も含めたノートル=ダム大聖堂のあらゆる建築要素がカトリックの教義の象徴となっており、それは一巻の聖書そのものであることを詳細に示した。
 しかし、ユイスマンスがその宗教的要素にしか言及しないのに対して、ユゴーは「宗教的象徴は言うまでもなく、人類が抱いたありとあらゆる思想」と言っているところに違いを読み取らなければならない。
 ユイスマンスはノートル=ダムのガーゴイルやキマイラ達のことに触れていないが、それは宗教的解釈を許さない部分だからであり、彼はそれに触れることができない。そこには奔放な人間の想像力の跳梁を読み取るべきで、それらはカトリックの教義を逸脱さえするものであったはずだ。
だから私はユイスマンスの純粋性に惹かれる気持ちはあるが、結局はユゴーの考え方の方に与しないわけにはいかない。ユゴーの考え方は教会建築の中にどうして、あの様なグロテスクな要素が存在するのかということを説明可能なものとするからである。

キマイラたちと聖人像の混在