もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

藤田中尉のアメリカ本土爆撃を学ぶ

2021年06月03日 | 軍事

 大東亜戦争において唯一アメリカ本土を空爆した藤田信雄中尉の著書が刊行され、脚光を浴びている。

 自分が小学校高学年になった昭和30年代初頭には、戦後の急激な反戦・反軍思想蔓延の反作用からであろうか、少年雑誌に戦記物が数多く掲載されていた。記憶にあるところでは、曰く「軍神広瀬中佐肉一片」「橘大隊長奮戦記」「壮烈、佐久間艇長」で、藤田中尉のアメリカ本土爆撃行もその中に含まれていたが、改めて、藤田中尉の爆撃行をウィキペディアで辿ってみた。
 藤田中尉(大分県出身)は、昭和7年に予科練に入隊、開戦時は飛行兵曹長で複座式零式水上偵察機(零水)の操縦員として伊号第二十五潜水艦(伊25潜)に乗艦していた。爆撃は、太平洋岸北西部に大規模な山火事を発生させてアメリカ市民の戦意を挫くことを目的に海軍軍令部の直接指導で行われ、爆撃の詳細は飛行技量抜群であった藤田飛曹長に直接命じられてたとされている。
 命を受けた伊25潜は1942(昭和17)年8月15日横須賀出港、9月9日の午前6時カリフォルニアとオレゴンの州境西側に浮上して、非発見の危険に晒されながら分解格納されていた零水を組み立てた。藤田飛曹長と奥田兵曹(偵察兼通信員)の零水は2個の焼夷弾(合計155㎏)を搭載して離水、1個はオレゴン州のエミリー山脈のホイーラーリッジに投下されて火災を誘発したが、もう片方の焼夷弾の投下地点は不明となっている。ホイーラーリッジに投下した焼夷弾は前夜の降雨で森林が湿っていたために立木1本を焼いただけで消し止められた。爆撃後、伊25潜は零水を収容・分解・格納し得たもののアメリカ陸軍航空機による爆撃を受けるが被害はなく、3週間後の9月29日に再び2回目の爆撃を行い、藤田飛曹長が投弾後に炎を見たと報告したものの、アメリカ側には確認されていない。
 以上のとおり、爆撃行によってアメリカに与えた直接被害は極めて軽微であったが、外国から本土を直接攻撃された経験がない国民には動揺が広まって、西海岸はおろか東海岸のシカゴ・ニューヨークでも常続的哨戒が採られたとされている。

 今回の勉強で始めて知った部分も多いが、藤田中尉(終戦時特進による)は戦後オレゴン州に招待されて大きな歓迎を受けるとともに、敵将兵としては稀有の事であるが、レーガン大統領から勇気・壮図を絶賛されるという栄誉に浴した。藤田中尉もオレゴンの歓迎に報いるために1985(昭和60)年に爆撃地の3人の女子学生を日本に招待する等の親善に努め、ブルッキングズ市の名誉市民となった数日後の1997(平成9)年9月30日に85歳で世を去った。「日本帝国海軍潜水艦の慰霊碑建立に思う(2018.12.28)]で紹介したダーウィン攻撃の特殊潜航艇員に海軍葬を行ったオーストラリア海軍と同じ様に、敵であっても稀有の挺身を騎士道・武士道と称える愛国の情は日本においては既に廃れ、壮図も忘れ去られているかのように感じられるのは寂しい限りである。
 ちなみに、1942年9月のオレゴン州に対する2度にわたる攻撃は、9.11同時テロが起きるまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の航空機による攻撃とされていたが、宣戦布告した戦争では今もって藤田中尉の爆撃が唯一である。