先ずは、北朝鮮の核実験に強く抗議の意を表します。世界が 核廃絶へ向けた新たな努力を始めているとき、時代に逆行した核開発は、北朝鮮の人々を国際社会からますます孤立させる不幸へと導くことだろう。北朝鮮は、こうした策動を直ちに止めて、6カ国協議の枠組みで話し合いによる平和共存の道に進むことを求めるものです。同時に日本政府も、制裁一本槍でない外交手段による問題解決の道を探ることを改めて求めます。
さて本題に入ります。
秘書課の玲奈さんが、応益負担的「障害者自立支援法」の見直しは社会すべてにかかわる課題で以下のように述べています。
社会全体で社会福祉サービスを負担するのではなく、個人が自分のお金で必要な社会的サービスを購入すべきであるという「応益負担論」にもとづくのが、現在の「障害者自立支援法」です。これを根本的に見直すことは、すべての社会のメンバーが幸せに生きられる社会を作るために必要である・・・。
・・・障害のない者は生存のために払わなくて済んでいるお金を障害者には特別に払わせることによって維持しようとする社会は原理的に誤っているからです。
「新自由主義」が人々の生活を破壊していることと、「応益負担論」にもとづく「障害者自立支援法」の反民主性、反人権性とは直結しています。「応益負担論」にもとづく「障害者自立支援法」の問題は、障害者当事者だけの問題ではなく、日本社会の誰もにかかわる性質を持っています。(以上、部分引用)
同感です。個別障害者問題ではなく、人間と社会のあり方に関わる基本的な問題だという点で同感です。
私は過去に、次のように書きました。
5) 共に生きる知恵と「炭鉱のカナリア」
少年の頃を思い出した。知的障害を持つ従妹がいた。祖母が「あういう子は、家中の災難を一人でしょって生まれて来た子じゃ、大事にせんば・・・」といっていた。種子島の田舎の、学もない、決して慈悲深いとはいえない祖母だったが、共同体の「共に生きる」知恵と、命を生み出した母性とがそういわせたのかもしれない。
話を戻します。
仲間たちは、今悲鳴を上げています。(知的障害の仲間は、訳もわからず、悲鳴さえ上げられない!)「炭坑のカナリア」の話をご存知ですか?
その昔、坑夫はかごに入れたカナリアを持って,坑道に入ったそうです。ガスをいち早く感知して危険を知らせてくれたのだそうです。
今、仲間たちは,自立自助、自己責任が押し付けられる、この国にあって、「ここから先へ行っては危ない!人間が行く道じゃない!」と、教えてくれているのではないだろうか?
応益負担に反対するこの運動は、単に、仲間や家族の経済的な負担が大変だから何とかしなきゃという問題を超えた、大きな意味を含んでいると思います。
6) つながる生命=障害は私たちの一部
障害を持つ人たちは、特異な存在ではなく、「つながる生命=私たちの一部」だということ。
生命を受け継ぎ、より豊かな生命を紡ぐために、ともに走るランナーだということ。一人のランナーの役割として「障害」をしょったかもしれない、仲間たちの「いきることの困難」を、この国、この時代に生まれた不幸で塗り固めたら、私たちに、心から笑える明日は来るのだろうか。
応益負担に反対する私たちの運動は、こうして一人障害者問題にとどまらず、人間が人間らしく生きる社会のあり方を問うものとなっていると思います。
障害とは何か、それは決して自己責任ではなく、人間という生命体、種のめぐり合わせであること・・・など、私なりの、考えをまとめた二部作であり、ちょっと大げさですが私の思想的原点に通ずるものです。是非一度お読みください。
NO.117 自立支援法・応益負担は許さない!(1)
http://toyugenki2.blog107.fc2.com/blog-entry-120.html
NO.120 自立支援法・応益負担は許さない!(2)
http://toyugenki2.blog107.fc2.com/blog-entry-121.html
内容は以下の目次です。福祉関係者だけでなく普通の人にわかってほしくて、できるだけ日常語で分かりやすく書いたつもりです。
1) 応益負担とは何か。
2) 「障害」とは何か?
3) 障害は自己責任か?
4) 生命(いのち)と障害。
5) 共に生きる知恵と「炭鉱のカナリア」
6) つながる生命=障害は私たちの一部