ゴエモンのつぶやき

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「日本卓球の中興の祖」が極める指導者の神髄 2

2010年07月26日 01時11分10秒 | 障害者の自立
 西村さんが全日本監督時代にあの福原選手を指導した人だと知った上田さんは、東京富士大学への進学を強く希望するようになる。初めて家族と離れ、東京の大学に進むことを家族や周囲の人は当然ながら心配したが、上田さんの決意は固かった。

 話を聞いた西村さんは、「特別扱いしない」ことを条件に受け入れることを決断する。「自分を頼って来る若者がいることは、これ以上ない指導者としての誉れ。むげに断るわけにはいかない」。

 こうして上田さんの東京富士大学への進学が実現することになった。上田さんは、卓球部にとって初めてのろうの選手であるばかりでなく、同大にとっても初めて受け入れるろうの学生だった。卓球部だけでなく、全学挙げて、講義におけるノートテイキングなどの「情報保障」や様々な受け入れ体制を急ピッチで整えた。

 入るほうも、受け入れるほうも、覚悟を決めてのスタートだったと言えるだろう。上田さんが切り拓いた道を、追いかける学生も現れた。上田さんの入学から1年後、親友で同じろうの卓球選手である佐藤さんもまた、東京富士大学への入学を果たしたのである。


無意識に球を緩めに打ってしまう・・・

 しかし、肝心の指導方法は五里霧中の状態だった。ろうの選手をどのように指導するか。ベテラン指導者の西村さんにとってもほとんど経験がないだけに、当初は手探りで試行錯誤を続けるしかなかった。体育館の脇にある監督室のデスクの上に、西村さんの悩みを象徴する小さな“証拠”が今も置いてある。耳栓である。

 「どんなスポーツもそうでしょうが、卓球も音が重要な要素なんですよ。小さなピンポン球がラケットに当たる音や卓球台に弾む音を瞬時に判断して、次のプレーに反映させる。音がないと全く違う世界なんです。私もこの耳栓をして球を打ってみたが、まるで風船玉を売っているようで手応えが全く違う。参りましたね」

 それでも、入部する時の約束である「扱いも、練習メニューも皆と同じ」を貫いた。上田さんも、1年後に入ってきた佐藤さんも、相手の話は口の動き(読話)で理解できるので、相互のコミュニケーションは比較的問題が少なかった。

 問題はむしろ、指導者である自分のほうにあった。「最初のうちは、ついつい余計な気を遣ってしまっていた」のである。西村さんの売り物の指導法の1つは「多球練習」。監督が速射砲のように繰り出す球を、休まずに打ち返し続けるハードな練習方法である。

 上田さんにも当然、この猛練習をさせた。だが、上田さんを相手にする時は、「無意識のうちに緩めに打っていることが度々あった」と西村さんは苦笑気味に打ち明ける。

 「ほかの部員たちに悪い影響を与えないように」と、自分のほうから求めた約束なのに、距離感がうまくつかめなかったのだ。「本当の意味で同じように接することができるようになるまでには、3カ月以上かかったと思いますね」と西村さんは述懐する。

 もう1点、西村さんが強く留意したのが、ほかの部員たちとの融和だ。舞鶴から上京した上田さんは、体育館のすぐ脇にある寮に入った。その際、西村さんは1年上の加能尚子さんに相部屋になって普段の学生生活を含めて上田さんが団体生活に溶け込めるよう面倒を見ることを指示した。

 実力的にも、人柄的にも適任者として、西村さんが指名したのだ。加能さんは、監督に与えられたこのたいへんな役割を見事に果たした。4年生になった今年、加能さんはキャプテンを任され、上田さんとは今も相部屋で共同生活を続けている。


ほろ苦かった“勝利の美酒”

 こうして上田さんが入部して1年半後、佐藤さんが合流して半年後、西村さんたちの練習の成果が問われる最初の大舞台がやってきた。昨年9月に開かれた台北デフリンピックである。2人とも無事に代表に選ばれ、特に上田さんは早くから金メダル候補として期待を集め、日本チーム全体の主将にも選出された。西村さんも卓球チームのヘッドコーチとして一緒に台湾に入った(ちなみに、監督は前出の佐藤真二さんが務めている)。

 ところが、上田さんは重圧で全く精彩を欠いた。普段は明るく、前向きな上田さんから笑顔が消えていた。最初の団体戦では実力の片鱗も見せられずに完敗。西村さんは試合の合間も、時間を見つけてはいつもと同じ多球練習を行うなど、必死で上田さんの堅さを取り除こうと努めたが、手応えがない。

 最後のシングルスが始まる前に、不安を残したまま、西村さんは帰国の途についた。ちょうど同じ時期に日本で秋の関東学生リーグ戦が始まるため、そちらを優先しなければならなかったのだ。後ろ髪引かれる思いだった。

 だが、シングルスでは上田さんは見違えるように大活躍する。何か吹っ切れたかのように、笑顔を取り戻し、快進撃を続けた。それに引っ張られるように、後輩の佐藤さんも勝ち続ける。準決勝では2人が対戦し、同僚対決を制した上田さんが決勝に進出した。

 決勝戦があった9月14日の夜、西村さんは大学にほど近い高田馬場・栄通り商店街の裏手にあるなじみの居酒屋にいた。試合の状況は、携帯メールによって現地から刻々と送られてくる。が、もどかしくて、とても素面ではいられなかった。

 最初に行われた3位決定戦では、佐藤さんが中国の選手に勝ち、銅メダルを獲得。いよいよ上田さんが出る決勝戦となった。相手はやはり中国の強豪選手だ。試合はフルセットの激闘に。最終セットも激しいラリーの応酬となり、一進一退の攻防が続いたが、最後は上田さんが力尽き、優勝を逃した。それでも堂々の銀メダルである。現地からは「素晴らしい試合でした。上田さんは全力を出し切りました」というメールが届いた。「上田も、佐藤もよくやった」。西村さんはほっと胸をなで下ろした。

 だが、その夜の“勝利の美酒”は、少々ほろ苦かった。やっぱり、悔しい。後一歩のところで金メダルに届かなかったのはなぜか。「上田にも、指導者である私にも、何かが足りなかったということだ」と痛感した。

 「あいつらが帰ってきたら、また一からやり直しだ」。西村さんは、ぐいっとグラスに残った酒を飲み干した。

 この日から約1年。監督と選手たちは、どんな思いでそれぞれの競技生活と人生を見つめているのだろうか。


「日本卓球の中興の祖」が極める指導者の神髄 1

2010年07月26日 01時05分25秒 | 障害者の自立
 障害者と健常者が初めて一緒に働くことになった時、どちらの側にも不安と戸惑いが襲う。お互いがお互いのことを知らない、分からない。だから、最初は「どのように接したらいいのだろうか」と困惑する。少し慣れてきた後も、行き違いや誤解の種は尽きず、ときに葛藤や軋轢が生まれることもある。

 人事制度のあり方や職業スキルをどう磨くかといった課題の以前に、障害者雇用がうまくいくかどうかは、結局のところ、そうした「きしみ」を乗り越えられるかどうかにかかっているように思える。そのためには、健常者の側も、障害者の側も、双方が努力を積み重ねてコミュニケーションを深め、信頼関係を築いていくしかない。取材を進める中で痛感するのは、このことである。

 とはいえ、言うは易く行うは難し。それは簡単なことではないし、「こうすればうまくいく」という模範解答も、マニュアルもない。だが、何かしらの「要諦」はあるに違いない。

 そんな大命題の解の手掛かりを求めて、女子卓球界の名門、東京富士大学卓球部を訪ねた。ここには現在、2人の聴覚障害のある女子選手が在籍している。3年生の上田萌さんと、2年生の佐藤理穂さんだ。昨年9月に台北で開催された「第21回デフリンピック」(4年に1度開かれるろう者[聴覚障害者]の国際スポーツ大会)の卓球女子シングルスで、それぞれ銀メダル、銅メダルを獲得した。

 2人を指導しているのは、38年にわたって卓球部を率いており、東京富士大学教授でもある西村卓二監督。2004年のアテネ五輪当時の女子ナショナルチーム監督を務め、まだティーンエイジャーだった福原愛選手を抜擢し、その才能を開花させたことでも知られる名伯楽である。

 大学スポーツ界の名門チームで互いに高みを目指し、全身全霊をかけてぶつかり合う師弟たちの軌跡を追う。

 ここを訪ねたのは、ほぼ1年ぶりだった。梅雨の合間の青空が広がった6月下旬の午後、東京・高田馬場にある東京富士大学キャンパス内の体育館で、卓球部は練習中だった。

 10台ほどの卓球台が並ぶ館内で、選手たちは試合形式の激しい練習に汗を流していた。今年度の部員は12人。今年初めて男子選手1人が入部したが、残りは全員が女子選手で、中国からの留学生も1人いる。女子とはいえ、さすがに大学卓球界のトップアスリートたちが集まっているだけに、打ち出されるスマッシュボールのスピードは凄まじい。現場で体感する体育会の練習の迫力に、ただただ圧倒されるばかりだ。


障害者も同じメニューをこなす

 監督の西村卓二さんは、といえば、体育館の片隅で腕組みをしながら、個々の選手の動きにじっと目を光らせている。時折、気になる動きを見つけると、大声で注意を与えたり、「そう、それでいいんだ!」と励ましたりする。注意が叱責となり、激しい罵声に変わる場面ももちろんある。だが、監督から選手たちに発せられる言葉は、意外なくらいに少ない。選手たちの自主性を重んじる西村さんの指導方針の一端が伺える気がした。


 そんな中、聴覚障害のある上田萌さんと佐藤理穂さんはどこにいるのか、すぐには見つけられなかった。なぜなら、彼女たちもほかの健聴の部員たちと全く同じメニューをこなしており、この時もそれぞれに別れて健聴の選手を相手に打ち込み練習に励んでいたからである。

 壁際に置かれた折り畳み椅子に腰を下ろし、練習風景を見つめていた東京富士大学理事長の二上貞夫さんと挨拶を交わした。「以前ご覧になってから、もう1年近くですか。あの頃に比べると、上田も、佐藤も随分と成長しましたよ。特に佐藤は見違えるように良くなりましたね」と言って、目を細めた。

 新宿区卓球連盟会長なども務める二上さんは練習のある日は頻繁に体育館に顔を出し、選手の成長を見守っているという。数多くの選手たちを見てきた二上さんの目にも、2人の成長ぶりは確かなものに映っているようだった。


卓抜な指導力を国際大会で発揮

 上田さん、佐藤さんという2人の聴覚障害者を預かって育てている西村さんは、卓球界では「熱血監督」としてその名を知られる。1948(昭和23)年生まれの団塊世代で、8月で62歳になる。「雪深い冬でもできる室内スポーツの卓球が盛んだった」富山県で育ち、「小学生の時から卓球で遊んでいた」という。

 競技として本格的に取り組み始めたのは中学2年生の時で、高校3年生の時には北信越高校大会で優勝、全国ジュニアでベスト8になるなどの好成績を上げた。高校卒業後は就職して2年間会社勤めをし、学費を貯めてから卓球の名門・中央大学に進学。卒業後の1973年に東京富士大卓球部の監督に就任した。

 西村さんが一躍「時の人」になったのは、女子ナショナルチーム監督に就任した2001年。その後の約4年間の在任中、アジア選手権、世界選手権などで女子団体にメダルをもたらしたほか、2004年のアテネ五輪でも参加した全選手をシングルスのベスト16に導くなど、その卓抜な指導力は「日本卓球の中興の祖」と称賛された。特に、当時まだ13歳だった福原愛選手を大抜擢し、世界選手権でベスト8、アテネ五輪でベスト16に導いたことで話題を集めた。

 これまでに育てた選手の人数を尋ねると、間髪を入れず、「全日本監督時代を含めて、383人です。今いる現役の学生たちは除いてね」との答えが返ってきた。その中にはアジア王者1人、全日本王者3人、社会人王者2人、学生王者2人が含まれている。

 卓球コーチとして輝かしい経歴を誇る西村さんだが、障害のある選手を預かったのは上田さん、佐藤さんが初めて。だから、「私にとっても、大きなチャレンジなんです」と西村さんは言う。「指導者としての真価が問われる試金石。私にとって、上田や佐藤はそんな存在なんですよ」。

 西村さんには、ここ数年ずっと心の中で思い続け、追究し続けているテーマがある。それは「本物の指導者とはどういうものか、指導者の神髄とは何か」ということだ。

 「卓球の指導者になって38年。陸上の400メートル走に例えれば、ホームストレッチに入りゴールが見えてきた段階。残り30~40メートルをどう走り抜き、ゴールを切るか。私の指導者人生の集大成はこれからの数年にかかっている、と思っているんです」

 そんな想いの中で出会うことになったのが、上田さんと佐藤さんだった。「私はあらゆるジャンル、カテゴリーの指導ができなければ、真の指導者ではないと考えています。卓球なら卓球で、小学生のチームでも、高校や大学のチームでも、ナショナルチームでも、あるいは地域のママさん卓球のチームでも、どのようなチームを任されても、それぞれのレベルに合った指導をして、選手たちの個性を伸ばし、能力を引き上げる。それができなければ、真の指導者とは言えません」と力を込めた。


入部は「特別扱い」なしが条件

 西村さんの「大きな挑戦」は2008年春、「ぜひ西村監督の指導を受けたい」と東京富士大学卓球部の門を叩いた上田さんを、悩んだ末に受け入れた時に始まる。西村さんと上田さんの間には、縁のようなものがあったのだろう。2人を結びつけたのは、実は福原愛さんの存在だった。

 京都府舞鶴市に生まれた上田さんには、生まれつきの聴覚障害がある。卓球を始めたのは6歳になる少し前の頃。4人いる兄弟がみな卓球をやっていて、特に同じ聴覚障害のある2番目の兄が卓球選手だったことに影響を受けた。その兄に誘われて見に行った試合会場で、1歳年長の福原愛さんが出場している姿を見て、本格的に卓球選手になることを夢見るようになった。

 やがて上田さんは小学校6年生の時に全国大会に出場、5・6年生の部でベスト8に入り、中学でも全国大会、高校でもインターハイに出場するなど一流選手に成長する。

 西村監督の存在を知ったのは、卒業後の進路をあれこれ考えていた高校3年生の時。同じ聴覚障害のある卓球選手として知り合った1歳年下の佐藤さんのお父さんから紹介された。佐藤さんの父親は同じ卓球コーチで、協和発酵キリンの男子社会人チームの監督(佐藤真二氏)である。

2ヘつづく

障害者サッカーW杯、出場費用が不足 NPOが寄付募る

2010年07月26日 01時00分01秒 | 障害者の自立
 サッカー・ワールドカップ(W杯)の開催地、南アフリカで8月、「もう一つのW杯」と呼ばれる知的障害者サッカーの世界選手権が開かれる。日本代表は3度目の出場を予定しているが、出場費用が工面できておらず、支援するNPOが寄付を呼びかけている。

 19日までの3連休、茨城県神栖市波崎のサッカー場で代表チームの合宿が行われた。炎天下の中、連係プレーやシュート練習を繰り返し、出発前最後の本格的な合同練習を終えた。

 「もう一つのW杯」は国際知的障害者スポーツ連盟が主催する。同連盟には60の国と地域が加盟。選手の多くは、学校や日常生活で使う読み書きや計算ができないといった障害を抱えている。8月21日から始まる今大会は、地元南アのほかドイツ、オランダ、アルゼンチン、ブラジルなど計16の代表チームが出場し、1次リーグ各組2位までの計8チームが決勝トーナメントに進出する。

 日本は2002年の日本大会で初出場。3回目となる今大会の目標は、岡田ジャパンと同じ「ベスト4」だ。アジアからは2チームが出場できるが、アジアでチームがあるのは韓国と日本だけだ。

 日本の20人は15歳から30歳。特別支援学校の生徒や警備員、車いす製造会社の会社員など、様々な顔ぶれがそろう。競技人口約5千人の中から、これまでの実績を参考に選抜された。

 3大会連続で出場する辺田光夫さん(30)は静岡市に暮らす。車のヘッドランプをつくる工場で働き、ジムに通ってトレーニングを続けている。1年前から職場の同僚に誘われて週3回、地元の少年サッカーチームのコーチも務める。「コーチ頑張ってって応援してくれる子どもたちに、必死で戦う姿を見てほしい」と気合を入れる。

 同じく3回目の出場の宮原優樹さん(29)=東京都北区=は、働きながら都内のチームで練習を続けている。十分な練習ができずにサッカーをやめていく仲間たちを多く見てきた。「世界で頑張ることがきっかけになって、日本でもたくさんのチームができれば」

 ただ、出発を1カ月後に控えた今も、必要な費用が工面できていない。渡航費560万円、選手村滞在費1320万円、予防注射代210万円など、事前合宿費用と合わせて約4千万円が必要。だが、国などの助成金約820万円や個人の寄付約320万円など、これまで集まったのは約1650万円だ。

 W杯の場合、日本サッカー協会(JFA)が渡航費や滞在費など、活動費用のすべてを負担する。だが、今回選手を派遣する日本知的障がい者サッカー連盟は収益が少なく、選手は自分たちで資金を集める必要がある。選手たちは10万円の自己負担を決めたが、これ以上の負担は難しいという。(宮嶋加菜子)

     ◇

 選手たちを支援しようと、NPO法人日本知的障害者サッカー支援機構(東京都中野区)は1口3千円からの寄付を募っている。詳細は、日本知的障がい者サッカー連盟ホームページ(http://jffid.org)へ。

朝日新聞

障害者や高齢者らが憩えるサロン、商店街にオープン/横浜‎

2010年07月26日 00時58分00秒 | 障害者の自立
 障害者や高齢者らが憩えるサロン「鶴見ふれあい館」が、横浜市鶴見区豊岡町の豊岡商店街にオープンした。飲み物や障害者が手作りした生活雑貨などの販売を行うほか、今後、付近の飲食店からランチを出前してもらい、食事も楽しめるようにするという。

 ふれあい館は20日に開館し、広さ約90平方メートル。区内で障害者就労支援事業所を運営する社会福祉法人理事(82)が、車いす利用者やお年寄りが気軽に立ち寄れる場所が少ないと感じ、趣旨に賛同した会社社長(50)が会議スペースなどとして使っている2階建ての建物の1階を開放。市の助成金で内装をリニューアルし、テーブルやいすなどを並べた。商店街や町内会、ボランティア関係者らが結成した運営委員会が切り盛りしている。

 無料で水が飲めるほか、コーヒーや紅茶(各150円)を販売。区内の地域作業所で作られたティッシュケースやふきん、食器洗いなどに使える毛糸のたわしなどが販売されている。

 ランチの出前には中華料理店や喫茶店など5店舗の協力が決まっており、お年寄りでも食べきれる量にするなど工夫するという。また、ギャラリーや講演会、コンサートなどの会場として、有料で貸し出す。

 開館は月~金曜の午前10時~午後5時。土日・祝日は休み。問い合わせは、ふれあい館電話045(582)5458。

カナロコ(神奈川新聞)

車いすで八幡平満喫 ボランティアが支援

2010年07月26日 00時54分40秒 | 障害者の自立
 2010年度障がい者八幡平トレッキングは24日、八幡平市の八幡平(1613メートル)で行われた。外に出て交流を広げようと、車いす利用者らがボランティアの支援を受けながら自然を満喫した。

 県と県身体障害者福祉協会の主催。身体、、精神、知的障害者と県山岳協会、翌檜(あすなろ)山岳会、姫神山想会のメンバー約40人が参加した。

 いすのクッションが強い6輪の登山用車いすをボランティアが支えながら山頂を目指した。ガスがかかり、雨も降ったために行程を短縮したが、参加者はキヌガサソウやハクサンチドリ、クルマユリなどの高山植物に目を向け、楽しんだ。

 初めて参加した盛岡市の佐々木正さん(70)は「高山植物がきれいだった。車いすの乗り心地に感激した。来年も来たい」と笑顔を広げた。

岩手日報