西村さんが全日本監督時代にあの福原選手を指導した人だと知った上田さんは、東京富士大学への進学を強く希望するようになる。初めて家族と離れ、東京の大学に進むことを家族や周囲の人は当然ながら心配したが、上田さんの決意は固かった。
話を聞いた西村さんは、「特別扱いしない」ことを条件に受け入れることを決断する。「自分を頼って来る若者がいることは、これ以上ない指導者としての誉れ。むげに断るわけにはいかない」。
こうして上田さんの東京富士大学への進学が実現することになった。上田さんは、卓球部にとって初めてのろうの選手であるばかりでなく、同大にとっても初めて受け入れるろうの学生だった。卓球部だけでなく、全学挙げて、講義におけるノートテイキングなどの「情報保障」や様々な受け入れ体制を急ピッチで整えた。
入るほうも、受け入れるほうも、覚悟を決めてのスタートだったと言えるだろう。上田さんが切り拓いた道を、追いかける学生も現れた。上田さんの入学から1年後、親友で同じろうの卓球選手である佐藤さんもまた、東京富士大学への入学を果たしたのである。
無意識に球を緩めに打ってしまう・・・
しかし、肝心の指導方法は五里霧中の状態だった。ろうの選手をどのように指導するか。ベテラン指導者の西村さんにとってもほとんど経験がないだけに、当初は手探りで試行錯誤を続けるしかなかった。体育館の脇にある監督室のデスクの上に、西村さんの悩みを象徴する小さな“証拠”が今も置いてある。耳栓である。
「どんなスポーツもそうでしょうが、卓球も音が重要な要素なんですよ。小さなピンポン球がラケットに当たる音や卓球台に弾む音を瞬時に判断して、次のプレーに反映させる。音がないと全く違う世界なんです。私もこの耳栓をして球を打ってみたが、まるで風船玉を売っているようで手応えが全く違う。参りましたね」
それでも、入部する時の約束である「扱いも、練習メニューも皆と同じ」を貫いた。上田さんも、1年後に入ってきた佐藤さんも、相手の話は口の動き(読話)で理解できるので、相互のコミュニケーションは比較的問題が少なかった。
問題はむしろ、指導者である自分のほうにあった。「最初のうちは、ついつい余計な気を遣ってしまっていた」のである。西村さんの売り物の指導法の1つは「多球練習」。監督が速射砲のように繰り出す球を、休まずに打ち返し続けるハードな練習方法である。
上田さんにも当然、この猛練習をさせた。だが、上田さんを相手にする時は、「無意識のうちに緩めに打っていることが度々あった」と西村さんは苦笑気味に打ち明ける。
「ほかの部員たちに悪い影響を与えないように」と、自分のほうから求めた約束なのに、距離感がうまくつかめなかったのだ。「本当の意味で同じように接することができるようになるまでには、3カ月以上かかったと思いますね」と西村さんは述懐する。
もう1点、西村さんが強く留意したのが、ほかの部員たちとの融和だ。舞鶴から上京した上田さんは、体育館のすぐ脇にある寮に入った。その際、西村さんは1年上の加能尚子さんに相部屋になって普段の学生生活を含めて上田さんが団体生活に溶け込めるよう面倒を見ることを指示した。
実力的にも、人柄的にも適任者として、西村さんが指名したのだ。加能さんは、監督に与えられたこのたいへんな役割を見事に果たした。4年生になった今年、加能さんはキャプテンを任され、上田さんとは今も相部屋で共同生活を続けている。
ほろ苦かった“勝利の美酒”
こうして上田さんが入部して1年半後、佐藤さんが合流して半年後、西村さんたちの練習の成果が問われる最初の大舞台がやってきた。昨年9月に開かれた台北デフリンピックである。2人とも無事に代表に選ばれ、特に上田さんは早くから金メダル候補として期待を集め、日本チーム全体の主将にも選出された。西村さんも卓球チームのヘッドコーチとして一緒に台湾に入った(ちなみに、監督は前出の佐藤真二さんが務めている)。
ところが、上田さんは重圧で全く精彩を欠いた。普段は明るく、前向きな上田さんから笑顔が消えていた。最初の団体戦では実力の片鱗も見せられずに完敗。西村さんは試合の合間も、時間を見つけてはいつもと同じ多球練習を行うなど、必死で上田さんの堅さを取り除こうと努めたが、手応えがない。
最後のシングルスが始まる前に、不安を残したまま、西村さんは帰国の途についた。ちょうど同じ時期に日本で秋の関東学生リーグ戦が始まるため、そちらを優先しなければならなかったのだ。後ろ髪引かれる思いだった。
だが、シングルスでは上田さんは見違えるように大活躍する。何か吹っ切れたかのように、笑顔を取り戻し、快進撃を続けた。それに引っ張られるように、後輩の佐藤さんも勝ち続ける。準決勝では2人が対戦し、同僚対決を制した上田さんが決勝に進出した。
決勝戦があった9月14日の夜、西村さんは大学にほど近い高田馬場・栄通り商店街の裏手にあるなじみの居酒屋にいた。試合の状況は、携帯メールによって現地から刻々と送られてくる。が、もどかしくて、とても素面ではいられなかった。
最初に行われた3位決定戦では、佐藤さんが中国の選手に勝ち、銅メダルを獲得。いよいよ上田さんが出る決勝戦となった。相手はやはり中国の強豪選手だ。試合はフルセットの激闘に。最終セットも激しいラリーの応酬となり、一進一退の攻防が続いたが、最後は上田さんが力尽き、優勝を逃した。それでも堂々の銀メダルである。現地からは「素晴らしい試合でした。上田さんは全力を出し切りました」というメールが届いた。「上田も、佐藤もよくやった」。西村さんはほっと胸をなで下ろした。
だが、その夜の“勝利の美酒”は、少々ほろ苦かった。やっぱり、悔しい。後一歩のところで金メダルに届かなかったのはなぜか。「上田にも、指導者である私にも、何かが足りなかったということだ」と痛感した。
「あいつらが帰ってきたら、また一からやり直しだ」。西村さんは、ぐいっとグラスに残った酒を飲み干した。
この日から約1年。監督と選手たちは、どんな思いでそれぞれの競技生活と人生を見つめているのだろうか。
話を聞いた西村さんは、「特別扱いしない」ことを条件に受け入れることを決断する。「自分を頼って来る若者がいることは、これ以上ない指導者としての誉れ。むげに断るわけにはいかない」。
こうして上田さんの東京富士大学への進学が実現することになった。上田さんは、卓球部にとって初めてのろうの選手であるばかりでなく、同大にとっても初めて受け入れるろうの学生だった。卓球部だけでなく、全学挙げて、講義におけるノートテイキングなどの「情報保障」や様々な受け入れ体制を急ピッチで整えた。
入るほうも、受け入れるほうも、覚悟を決めてのスタートだったと言えるだろう。上田さんが切り拓いた道を、追いかける学生も現れた。上田さんの入学から1年後、親友で同じろうの卓球選手である佐藤さんもまた、東京富士大学への入学を果たしたのである。
無意識に球を緩めに打ってしまう・・・
しかし、肝心の指導方法は五里霧中の状態だった。ろうの選手をどのように指導するか。ベテラン指導者の西村さんにとってもほとんど経験がないだけに、当初は手探りで試行錯誤を続けるしかなかった。体育館の脇にある監督室のデスクの上に、西村さんの悩みを象徴する小さな“証拠”が今も置いてある。耳栓である。
「どんなスポーツもそうでしょうが、卓球も音が重要な要素なんですよ。小さなピンポン球がラケットに当たる音や卓球台に弾む音を瞬時に判断して、次のプレーに反映させる。音がないと全く違う世界なんです。私もこの耳栓をして球を打ってみたが、まるで風船玉を売っているようで手応えが全く違う。参りましたね」
それでも、入部する時の約束である「扱いも、練習メニューも皆と同じ」を貫いた。上田さんも、1年後に入ってきた佐藤さんも、相手の話は口の動き(読話)で理解できるので、相互のコミュニケーションは比較的問題が少なかった。
問題はむしろ、指導者である自分のほうにあった。「最初のうちは、ついつい余計な気を遣ってしまっていた」のである。西村さんの売り物の指導法の1つは「多球練習」。監督が速射砲のように繰り出す球を、休まずに打ち返し続けるハードな練習方法である。
上田さんにも当然、この猛練習をさせた。だが、上田さんを相手にする時は、「無意識のうちに緩めに打っていることが度々あった」と西村さんは苦笑気味に打ち明ける。
「ほかの部員たちに悪い影響を与えないように」と、自分のほうから求めた約束なのに、距離感がうまくつかめなかったのだ。「本当の意味で同じように接することができるようになるまでには、3カ月以上かかったと思いますね」と西村さんは述懐する。
もう1点、西村さんが強く留意したのが、ほかの部員たちとの融和だ。舞鶴から上京した上田さんは、体育館のすぐ脇にある寮に入った。その際、西村さんは1年上の加能尚子さんに相部屋になって普段の学生生活を含めて上田さんが団体生活に溶け込めるよう面倒を見ることを指示した。
実力的にも、人柄的にも適任者として、西村さんが指名したのだ。加能さんは、監督に与えられたこのたいへんな役割を見事に果たした。4年生になった今年、加能さんはキャプテンを任され、上田さんとは今も相部屋で共同生活を続けている。
ほろ苦かった“勝利の美酒”
こうして上田さんが入部して1年半後、佐藤さんが合流して半年後、西村さんたちの練習の成果が問われる最初の大舞台がやってきた。昨年9月に開かれた台北デフリンピックである。2人とも無事に代表に選ばれ、特に上田さんは早くから金メダル候補として期待を集め、日本チーム全体の主将にも選出された。西村さんも卓球チームのヘッドコーチとして一緒に台湾に入った(ちなみに、監督は前出の佐藤真二さんが務めている)。
ところが、上田さんは重圧で全く精彩を欠いた。普段は明るく、前向きな上田さんから笑顔が消えていた。最初の団体戦では実力の片鱗も見せられずに完敗。西村さんは試合の合間も、時間を見つけてはいつもと同じ多球練習を行うなど、必死で上田さんの堅さを取り除こうと努めたが、手応えがない。
最後のシングルスが始まる前に、不安を残したまま、西村さんは帰国の途についた。ちょうど同じ時期に日本で秋の関東学生リーグ戦が始まるため、そちらを優先しなければならなかったのだ。後ろ髪引かれる思いだった。
だが、シングルスでは上田さんは見違えるように大活躍する。何か吹っ切れたかのように、笑顔を取り戻し、快進撃を続けた。それに引っ張られるように、後輩の佐藤さんも勝ち続ける。準決勝では2人が対戦し、同僚対決を制した上田さんが決勝に進出した。
決勝戦があった9月14日の夜、西村さんは大学にほど近い高田馬場・栄通り商店街の裏手にあるなじみの居酒屋にいた。試合の状況は、携帯メールによって現地から刻々と送られてくる。が、もどかしくて、とても素面ではいられなかった。
最初に行われた3位決定戦では、佐藤さんが中国の選手に勝ち、銅メダルを獲得。いよいよ上田さんが出る決勝戦となった。相手はやはり中国の強豪選手だ。試合はフルセットの激闘に。最終セットも激しいラリーの応酬となり、一進一退の攻防が続いたが、最後は上田さんが力尽き、優勝を逃した。それでも堂々の銀メダルである。現地からは「素晴らしい試合でした。上田さんは全力を出し切りました」というメールが届いた。「上田も、佐藤もよくやった」。西村さんはほっと胸をなで下ろした。
だが、その夜の“勝利の美酒”は、少々ほろ苦かった。やっぱり、悔しい。後一歩のところで金メダルに届かなかったのはなぜか。「上田にも、指導者である私にも、何かが足りなかったということだ」と痛感した。
「あいつらが帰ってきたら、また一からやり直しだ」。西村さんは、ぐいっとグラスに残った酒を飲み干した。
この日から約1年。監督と選手たちは、どんな思いでそれぞれの競技生活と人生を見つめているのだろうか。