猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

分配の平等と機会の平等、アメリカン・ドリームの没落

2020-08-26 12:07:52 | 聖書物語


新約聖書に4つの福音書がある。加藤隆は、『福音書=四つの物語』(選書メチエ)で、イエスの死後、いろいろな教会(エクレーシア)ができ、それぞれが信徒をあらそった痕跡が、福音書の違いに残っていると書く。少なくとも、どの福音書が面白い話をあつめているかの競争があったようだ。

新約聖書の『マタイ福音書』20章1-15節に、次のような話がある。

ぶとう園の主人は、朝の早く、また、朝の9時に、昼の12時に、昼の3時に、夕方の5時に、広場に出かけ、立っている何人かに声をかけた。
「どうしてここで仕事もせずに立っているのかね」
「誰も私を雇ってくれないからですよ」
「ではお前さんたちも、1デナリで、うちのぶとう園においでなさい」
このように、それぞれの時刻に人を雇った。
そして、夕方になると、後からきたものから順に、同じ額の1デナリをはらった。
早くから働いたものたちは
「くそ暑いのに我慢して働いたのに、同じ支払いとは」
と文句を言った。
ぶとう園の主人は、こう言い返した、
「私は、みんなに同じように支払いたいのだ。私の気前の良さをねたむのかね。」

聖書研究者の田川建三は、この挿話を気に入っていて、「平等」の1つの形を提示している、と どこかで書いていた。『キリスト教思想への招待』(勁草書房)ではないか、と思う。

「個人の尊重」の近代社会では、「平等」は「機会の平等」であって、「分配の平等」ではないと教えられる。世の中は競争社会であると教えられる。「分配の格差」は個人の働きの結果である、すなわち、個人の責任と教えられる。学校教育に疑いをもたない人は、「機会の平等」を信じているようである。

Max Weberと同時代のカール・カウツキーは『中世の共産主義』(法政大学出版局)で、中世の大衆は「機会の平等」でなく「分配の平等」を求めていた、と書く。教会主流派は「分配の平等」を異端の教えだと幾度も否定してきたが、「分配の平等」を求める運動が幾度も幾度も起きていたと書く。「共産主義」の「財の共有」とは決して「機会の平等」ではない。

2011年9月17日にアメリカで「ウォール街を占拠せよ(Occupy Wall Street)」という運動が起き、金融街に座り込みとテント村が出現した。残念ながら、約2か月で鎮圧された。

このとき、アメリカ政治外交、アメリカ政治思想を研究する青山大学教授の中山俊宏は、「機会の平等」を唱えるアメリカン・ドリームが今崩れ落ちているのだ、とNHKテレビで解説した。「アメリカン・ドリーム」は既得権層が後からくる移民をだまかすための幻想だが、もはや、その機能さえ、果たせなくなった、と語った。

「ウォール街を占拠せよ」の運動がどのようになったのか、2007年年末に外資系会社を退職した私にはわからない。しかし、「分配の平等」の運動は、アメリカン・ドリームが色あせた今、幾度も幾度も、息を吹き返すだろう、と私は思う。

聖書には禁欲という言葉がでてこない、マックス・ウェーバーの誤り

2020-08-25 22:28:54 | 宗教


Max Weberによれば、資本主義社会が出現するには、働くことが自分の義務だと考える労働者が出現することが要(かなめ)となる。その意味で、「禁欲的ピューリタンの倫理」が「資本主義の精神」となる。

ところが、聖書には「禁欲」という言葉がでてこない。
そもそも、「禁欲」というのは、ドイツ語の“Askese”の大塚訳である。 “Askese”に対応する古典ギリシア語は “ἄσκησίς”である。この語の意味は、「訓練」とか「鍛錬」とか「修行」である。
聖書には、“ἄσκησίς”の動詞形“ἀσκῶ”が、一度だけ、新約聖書の『使徒行伝』24章16節に出てくるが、新共同訳も口語訳も「努めています」と訳している。

〈こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。〉(使徒行伝24章16節)

そもそも、キリスト教とは、差別される者たちの反乱である。イエスは、それまでの社会の掟に逆らい、聖都エルサレムに攻め上った反徒のリーダーである。イエスの時代、ローマには、自由民の最下層プロレタリアと奴隷との区別があったが、属国には、しもべとと奴隷の区別がなかった。そして、彼らが社会の大半であった時代の、政治的な意識(民主主義)がない時代の反乱である。

Max Weberのいう「禁欲(Askese)」は個人的なものである。自分さえ救われればよいという考えからくる自己鍛錬である。救われるかどうかの「不安」からくる「脅迫症行動」である。

バートランド・ラッセルは、このキリスト教の変質を神学者アウレリウス・アウグスティヌスに帰す。ラッセルによれば、アウグスティヌスは子どものときの梨を盗んだことを罪としてしつこく悩んでいる、頭のオカシイ男である。この男が、キリスト教をローマ帝国の国教とするのに貢献したという。そして、性の快楽を理性の邪魔だと考えた。

ただし、その時代の教父にしろ修道士にしろ、妻帯はべつに禁じられる行為ではなかった。「修行」の妨げとか、そもそも、「修行」が必要だという考えさえも、なかった。

Max Weberと同時代の社会主義者カール・カウツキーは『中世の共産主義』(法政大学出版局)で、「禁欲」とは、社会がまだ豊かでない時代には、みんなが平等であることを願う人は、豪奢な生活を罪悪としたと言う。禁欲的ピューリタンは、それだけでなく、どこかに貧しくて不幸な人がいるから、自分たちの歓びや楽しみまで、それがごく他愛のないものまでも、罪悪と見た人々を言う。

カウツキーは、禁欲的ピューリタンはそれを他人にまで強制したので、農民や労働者から嫌われたという。同じことを、森本あんりは『反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体』 (新潮選書)で語る。アメリカでは、禁欲的ピューリタンは後から来た移民から嫌われた。

禁欲的ピューリタンには、初期キリスト教徒のもっていた「平等」の考えが欠けていた。「平等」とは、他人に苦痛を強要することではなく、共感から生まれる「喜びの共有」である。

エーリック・フロムが『自由からの逃走』(東京創元社)で批判していたように、カルヴァン派の「予定説」は人間が生まれながらにして格差があるとするものである。カルヴァンは、ジュネーブの富裕層に雇われた神学者で、アウグスティヌスの『神の国』から「予定説」を導いたという。

私には『神の国』があまりにも荒唐無稽で最後まで読めなかった。しかし、アウグスティヌスの言う「神の国(神の支配する国)」は教会のことで、現世のローマ帝国と両立できるものであった。ところが、カトリックを否定すると神の国がこの世に存在しなくなる。残された解釈は、「神の国」はまだ来ていなくて「革命」を起こすべきとするか、「神の国」とは死後の世界とするしかない。

15世紀、16世紀の北ヨーロッパは、農民や職人や商人による反乱が次々と起こったが、富裕市民層は革命を否定し、自分たちを肯定するためには、救われるものと救われないもの区別は神が恣意的に決めるという「予定説」に行き着くしかなかったと思う。

Max Weberの母、ヘレーネは、Maxと異なり、みんなが平等であることを願う人であった。Maxの妻は、つぎのように、ヘレーネのことを書く。

〈自分の安楽さのためにばかりあまりにも多くのことがなされて「他人のためには充分」してやっていないという気持ちにたえず さいなまれた。そこで彼女はできるかぎり自分の出費は倹約しはじめ、いままでならば人手を借りていたようなある種の家事をも自分で引き受けて余計な負担を増した――この「労賃」によってこっそりと貧者に施す資金をためようというのである。〉

ヘレーネは夫より桁違いの金持ちの娘だったが、夫は保守政治家で妻のお金を家長として管理した。しかも、ヘレーネの夫も息子も「平等」という考えが欠けている個人主義者だ。Maxの妻も「平等」という考えが欠け、ヘレーネに共感していない。「余計な負担を増した」とは、ヘレーネが「不要」なことをしているとMaxの妻が責めているのだ。

MaxもMaxの妻もクソだ。

「禁欲」が、貧しきもの弱きものへの共感を欠くなら、そのことにより、「禁欲は資本主義の精神」である。「資本主義」をぶっ壊さないといけない。

打落水狗がはじまった、安倍晋三長期政権のあっけない幕切れ

2020-08-24 22:58:14 | 安倍晋三批判
 
きょうのTBSテレビ『ひるおび!』で、政治アナリストの伊藤惇夫氏と政治ジャーナリストの田崎史郎が、安倍晋三の辞任の流れはもう止めようがないということで、一致していた。
 
続くTBSテレビの『ゴゴスマ』でも、きょうで安倍晋三の連続首相在職が最長となったが、なにをやったかのレガシー(歴史的遺産)がないね、と噂話に花を咲かせていた。
 
さらに、きょうのNHKテレビでは、政治学者の御厨貴が安倍晋三をリーダーシップのない男だと言っていた。
 
健康問題で、長期政権の幕切れが、すぐそこにきている。「池に落ちた犬は叩け」が始まったようだ。
 
この諺は中国由来で、「打落水狗(dǎ luòshuǐgǒu)」は、「すでに打ち負かされたが まだ降参していない悪人を、さらに追い打ちをかけてやっつけろ」ということらしい。
 
安倍晋三のレガシーがないというが、国家機密保持法、共謀罪、安保法制(軍事同盟ための法整備)と、強権的体制の法的準備をすすめてきた。
 
安倍晋三は、中身のない、ちゃらい男である。その彼が、なぜ、強権的体制の法的準備を進めるのか、私には長らくわからなかった。「桜を見る会」で集まったファンの前を嬉しそうに走り回っている安倍晋三が、本当の「晋三」だと思う。それなのに、保守のプリンセスだとかの右翼からの期待のプレッシャーに押しつぶされてきた。
 
ご苦労様、首相をやめてください。
 
安倍晋三の負の遺産は法律だけでない。安倍は、戦国時代の武将のように、自分のために働いた者に利権をばらまいてきた。このモラル崩壊は、これから立て直すのに時間がかかる。
 
また、日銀や年金積立金を使って、政府が株を買いあさってきた。多くの日本企業の筆頭株主が国になっている。国の借金も巨額である。麻生副総理は、お札を刷れば解決だと言っている。めちゃくちゃな経済が負の遺産として残っている。
 
そして、自民党内には、マシな後継者がいない。岸田文雄、おお嫌だ。偉さうにふんぞり返っている。理念がない。助けるブレインもいない。
 
 
これでは、「打落水狗」もやむをえない。

マックス・ウェーバーの「禁欲」とプラトンの「節制」

2020-08-22 23:06:22 | 思想

きのう、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(岩波文庫)を借りてきた。アリストテレスはプラトンと同じく「節制」を徳目としていた。そして、気づいたことは「禁欲」が両者の著作に現われないことだ。

マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波書店)では「禁欲」が中心的課題だが、「節制」が現れない。

これは問題だ(Das Problem、ヴェーバ―への嫌味)。

じつは、これは翻訳の問題でもある。「節制」は古典ギリシア語で “σωφροσύνη”で、ドイツ語で“Mäßigkeit”である。「禁欲」は古典ギリシア語で “ἄσκησίς”で、ドイツ語で “Askese”である。

プラトンは“ἄσκησίς”という語を本当に使っていないが、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で一度だけ使っている。断片1170aでつぎのようにいう。

〈 γίνοιτο δ᾽ ἂν καὶ ἄσκησίς τις τῆς ἀρετῆς ἐκ τοῦ συζῆν τοῖς ἀγαθοῖς, καθάπερ καὶ Θέογνίς φησιν.〉
〈また、卓越性の或る訓練は、テオグニスも言っているように、よきひとびとと生を共にしていることによって可能となる。〉(高田三郎訳)

ここの “ἄσκησίς”は、「鍛錬」あるいは「修行」という意味である。これを、なぜか、日本で「禁欲」と訳すからおかしくなる。

マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は第2章第1節でつぎのようにいう。

〈それ(Die christliche Askese)は、自然の地位を克服し、人間を非合理的な衝動の力と現世および自然への依存から引き離して計画的意思の支配に服させ、彼の行為を普段の自己審査と倫理的意義の熟慮のもとに置くことを目的とする、そうした合理的生活態度の組織的に完成された方法〉(大塚久雄訳)

“Askese”を「禁欲」と訳すから、ヴェーバ―が何か特別のことを言っているように聞こえる。また、ここの「自己審査」は“Selbstkontrolle”の訳である。「自制心」と訳せば、「節制」の別表現であることがわかる。

逆に「節制」にあたるドイツ語 “Mäßigkeit”も『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第1章第2節に、ベンジャミン・フラクリンの言葉として現れる。

〈勤勉と質素は別にしても、すべての取引で時間を守り法にたがわぬことほど、青年が世の中で成功するために役立つものはない。〉(大塚久雄訳)

ここの「質素」が“Mäßigkeit”の訳である。「節制」と訳したほうがピンとくるかもしれない。

「節制(Mäßigkeit)」は生活態度であり、「禁欲(Askese)」は意識的に自分の心を制御することである。

ヴェーバ―は、第1章で、ベンジャミン・フラクリンを「禁欲」の実践者とし、享楽に走らず、お金に執着する彼を、「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」を結ぶリンクとして評価する。

ヴェーバ―と同時代の社会主義者カール・カウツキーは『中世の共産主義』(法政大学出版局)で、ローマ時代や中世のように生産力がない時代に、みんなが平等であることを願う人は、豪奢な生活を罪悪としたと言う。ところが、それだけでなく、どこかに貧しくて不幸な人がいるから、自分たちの歓びや楽しみまで、それがごく他愛のないものまでも、罪悪と見た人々がいた。それを禁欲的ピューリタン主義と彼は言う。

これに対し、ヴェーバ―は、「予定説(Prädestinations)」を信奉するカルヴァン派の「禁欲(Askese)」が、自分が救われるかどうかの確信が持てないことからくると、第2章で説明する。これでは、「禁欲(Askese)」は、強迫症の患者がする強迫行為のようである。

そして、ヴェーバ―は、この強迫行為こそ、資本主義の発展を促した精神であるとする。その理由は、神の恩恵に選ばれて救われるのは、個人的なことだからとする。すなわち、自分さえ良ければよいのだいう精神だ。ヴェーバ―は、バニヤンの『天路歴程』からつぎの話を引用する。

〈「クリスチャン」が「滅亡の町」に住んでいることに気づき、一刻も躊躇せず天国への巡礼に旅立たねばならぬとの召命を聞いてからあととった態度の描写を見るべきである。妻子は彼にとりすがろうとする。――が、彼は指で耳をふさぎ、「生命を、永遠の生命を!」と叫びながら野原を駆け去っていく。〉(大塚久雄訳)

ヴェーバ―はこれを「根本においてただ自分自身を問題とし、ただ自分の救いをのみを考えるピュウリタン信徒たちの情感を描き出した」と絶賛する。

これでは、禁欲的ピューリタンは強迫症であるだけでなく、人格障害となる。ヴェーバ―こそ頭がおかしいのではないか。(実際、彼は心を病んでいた。)

どこかにいる貧しくて不幸な人々に共感して、自分だけ豪奢な生活を送れないというのは、私はわかる気がする。しかし、「来世」で救われるかどうかの不安から、禁欲行為に走るのは本当かなと疑う。

「来世」「天国」「地獄」は聖書には出てこない考えだ。こんな話をするヴェーバ―は詐欺師ではないか。

だいたい、貧しい者、不幸な者は、「来世」がどうかなどを気にしない。死は、金持ちも貧しいものを区別せずに訪れる。もちろん、クーラーを購入できない者には早く死がくるかもしれない。それでも、死は永遠の休息である。

頭がおかしいマックス・ヴェーバーが日本で評価されるのは、彼が国家主義で権力者の太鼓たたきだからで、右翼的な日本の知識人に好かれるのだろう。

最後に、言い忘れたが、「平等のための節制」とともに「奴隷とならないための節制」も私は大事だと思う。この問題もいつか取り上げたい。

具体性なく「極論」とか「ゼロリスク」とか技術官僚は言うな

2020-08-20 22:40:32 | 新型コロナウイルス

きょうの朝日新聞の《新型コロナ-政治と社会》で、元原子力規制委員長の田中俊一が、記者の「国民は100%の安全を求めるのではないですか」の問いに

「世論も司法も100%の安全や安心、ゼロリスクを求める」
「全くリスクのない技術など、歴史上存在しません」
「発信する政治家や専門家、伝えるメディア、受け取る国民の全部に問題があります。特にメディアの責任は大きい」
「メディアが引っぱり出した『にわか専門家』たちが、根拠もないことを言っている」
「少数意見を大事にするということと、根拠もない極論を伝えることは違うでしょう」
「実際に政治家が、極論を唱える『専門家』を国会に呼んで話をさせ、それをまたメディアが報じている」

と答えている。田中俊一はずっと技術官僚畑を歩いてきた人である。こういう人がこんなことを言うと、私は居直っていると思わざるをえない。

原発事故にしろ、新型コロナ対策にしろ、この間に起きたことは、政府と技術官僚への不信である。不信は、政府の主張が現実と合わなかったから、生じたものである。このとき、政府やその技術官僚が、批判者に向かって、「極論」とか「ゼロリスクを求めている」とか言ってしまったら、それは対話の拒否である。

現実はつねに選択肢がある。どの選択肢を選ぶかは個々人の自由である。そして、どれを選ぶかは、個々人によって異なる。国策となると、1つの選択肢を選ぶことになる。個々人の選択が異なるから争いが起きる。これを殴り合いや殺し合いに導かないで、妥協を形成するのが政治である。妥協を形成するに、話し合いがあるのが当然である、

科学や技術には、不確かなところがある。どこで、意見の相違が生じたか、技術官僚は答えなければならない。答えないで、ゼロリスクを求めているとか、極論とか言ってしまえば、「お上の言うことに逆らうな」と言っているのと同じだ。

私の経験で言うと、能力ないものが技術官僚の道を選択する。そして、権力の中心に向いているものが出世する。もちろん、これも偏見かもしれないが。

インタビューをした記者、尾沢智史もいけない。田中は厚生省の医療技術官僚をかばっているのだが、具体的に、どの批判を「極論」としているのか、どの意見を「現実的でない」としているのか、どの意見を「ゼロリスクを求めている」としているのか、何が「根拠もないこと」なのか、誰が「にわか専門家」か、「極論を唱える専門家」かを、具体的に言っていない。記者は聞きかえさないといけない。

さもないと、田中の言っていることに誰も反論できない。対話は、反論できる形で、話すことが基本である。実名がでようと、それで、誰かが傷つくことではない。