これまた時代の才女。こっそり自分を月に見立てているなど、心憎い一首。巧みな掛詞を現代詠に置き換えるのは、至難である。だからこの現代詠でも設定をかなり変えた。
【略注】○ふる=「(雨が)降る」「(年が=年齢が)経る」を掛ける。
○いでや=「(月が)さあ(雲から出ようか)」「(=出でや)(世間から)出家しよう
か」と掛ける。
○和泉式部=恋多き女の代表格。越前守大江雅致の娘。初婚の相手が和泉
守橘道真。のちに冷泉院皇子為為尊、敦道兄弟、藤原保昌(夫)などなど、恋
の遍歴が華やか。「式部日記」は敦道との恋路の記。25首入集。
【補説】和泉式部。いまのところ、最も充実している女性人名辞典から、ほぼ全文引用
する。(芳賀登、一番ヶ瀬康子、中島邦、祖田浩一監修『日本女性人名辞典』、
日本図書センター、1993年、26780円。なお普及版は1998年、3990円。)
「生没年不詳。平安中期の歌人。越前守大江雅致(まさむね)の娘。母は平保
衡(やすひら)の娘。幼名を御許丸(おもとまる)といい、のち江式部と呼ばれた。
早くから歌に秀で、父の関係で昌子内親王に使えた。長徳二年(996)前後に和
泉守橘道貞と結婚し、夫の官名により和泉式部と呼ばれた。道真との間に小式
部内侍を生んだが離別。式部と親しい間柄であった赤染衛門は道貞と別れるの
を思いとどまらせようとして歌を贈ったりしたが、式部の気持は変らなかった。の
ち「花山院歌合」などに出席して歌人として活躍する。冷泉天皇の皇子で、花山
院の弟である弾正宮為尊(ためたか)親王と結ばれるが、親王は長保四年(10
02)二六歳で死没。
源雅道、道命阿闍梨との間にも交渉を持ち、間もなく為尊親王の弟の帥宮敦通
(あつみち)親王との間に新たな恋をはじめる。『和泉式部日記』は、長保五年四
月の出会いから、翌年一月に敦通親王の邸に引取られるまでの二人の恋を歌
の贈答を中心に物語ったものである。
寛弘二年(1005)四月の賀茂祭には、親王と式部が同車で豪華な振舞いに及
んで衆人を驚かせたことが『大鏡』や『栄花物語』に見えている。父雅致は式部の
このような振舞いに耐えかね勘当をした。同四年親王は二七歳で死没し、二人の
恋は終った。
その後上東門院彰子に仕え、紫式部や伊勢大輔と親しく交わり、赤染衛門と歌の
贈答をしたりした。しばらく女房生活を送ったのち、藤原道長の家司の一人であっ
た藤原保昌と再婚し、その任国の丹後に下った。保昌は万寿四年(1027)には
大和守となり、その後摂津守も兼ね、長元九年(1036)七九歳で死没した。
式部は保昌と不和を生じ、離別したともいわれるが、晩年の行跡は不明である。
道長は浮かれ女と評したが、恋に生き、恋を歌い続けた生涯であった。
『和泉式部集』の正集には八三九首、続集には六四七首が収められている。『拾
遺集』から『新古今集』までの勅選集に二三九首が入集。
(『和泉式部集』『和泉式部日記』『和泉式部』)」