資料-新古今歌風論 峯村文人校注・訳「新古今和歌集」(小学館)、解説(抄録)
1 新古今集の抒情
和歌は文学である。したがって、歌人は、人間的深化が求められることはいうまでもないが、同時に、すぐれた歌人として生きるためには、芸術としての和歌の表現機能を深く自覚し、その時代的要求に答えられる創造的透視力を備えなければならない。新古今家風の直接的原動力となった藤原俊成の歌論的言説や実作には、さすがに、そういう歌人的資質のたぐいまれな豊かさを示しているものが多い。俊成は、『古来風体抄』に、「このやまと歌は、ただかなの四十七字のうちより出でて、五七五七七の句三十一字とだに知りぬれば、やすきやうなるによりて、口惜しく人にあなづらるるかたの侍るなり。なかなか深く境に入りぬるにこそ、むなしき空の限りもなく、わたの原波のはたてもきわめも知らずは覚ゆべきことには侍るべかりめれ」と書き付けた。この言説には、人間と和歌とを深奥から一体とする「幽玄体」を創造し、新古今風の担い手たちを育成した大歌人の、「短歌」という短詩形の、あなどりがたく、はかり知れない表現機能を透視した鋭い目が光っている。また、「六百番歌合」の判詞(はんし)の中に、「大方、歌の道、心を言ひ取らんとする歌は詞(ことば)を知らず、詞を思ふ歌は心たしかならず、姿を知れる歌は常に題をそらす、定まれる習ひなり」と書き付けた。『古今集』からの和歌の伝統の世界で歌人として生きるためには、題詠という窮屈な条件の中でも、その「題」を充足し、同時に、「心」と「詞」とを融合させ、しかも、「姿」を時代的要求に答えられるものとしたすぐれた抒情を生みえなければならなかったが、この言説には、伝統的規範の重さと歌壇的批判のきびしさの中を身をもって生きぬいてきた深い体験が響き出ている。
2 新古今の新風
新古今時代の新風歌人たちは、このような俊成を主導者として、醸成され、高揚された機運の中で、きわめて意欲的に、感覚をみがき合い、創造力を高め合い、透視力を鍛え合って、作歌に専念した。その機運をまず強力に促進したのは、藤原兼実の九条家が、歌人的天分の豊かな、兼実の弟慈円や兼実の子良経らを擁して、俊成・定家父子の歌人活動を積極的に支持し擁護したことであった。奇才定家は、俊成の創造した「幽玄体」から作歌の道に踏み入り、九条家を背景として、早くから新風の旗手的光芒を放っていた。後年、定家は、「近代秀歌」に、「昔、貫之、歌の心巧みに、たけおよびがたく、ことば強く、姿おもしろきことを好みて、余情(よせい)妖艶の体をよまず」と書き付け、定家の求めた新風が、『古今集』の紀貫之の知的斉整の抒情とは異なり、表現は幽微、哀切な心の世界があやしいなまめかしさを放つまでに感覚化された美に昇華した「余情妖艶体」の抒情にあることを暗示したが、何よりも、定家の作歌実践そのものがそれを強烈に示していた。定家は、そのような抒情を求めて、あまりに急進的で、作が難解でもあったので、家集『拾遺愚草員外』の注記によると、保守的歌人たちから、「達磨歌」と呼ばれて非難されたし、『無明抄』に、「中比(なかごろ)の体を執する人は、今の世の歌をば、すずろごとの様に思ひて、やや達磨宗などという異名をつけてそしりあざける」と書いている。しかし、定家の新風牽引力も大きく、「幽玄体」を核としながら、その「妖艶体」で新古今風最高潮時の歌風を彩った。そのような新風の世界に生きた歌人たちの作が、それぞれの人間的あり方と作歌対象のあり方とによって、優艶の抒情を基調として、高雅・華麗・豊潤・清艶・哀艶・妖艶といった趣の抒情、誠実・悲愁・寂寥・枯淡・幽寂・夢幻といった趣の抒情、それらの錯落した抒情、さらに、色なき色、声なき声といった幽妙な趣の抒情にまでわたり、『新古今集』を荘厳な美の殿堂にしているのである。しかし、その抒情を支えた表現の特色も見のがせない。
(続く)
1 新古今集の抒情
和歌は文学である。したがって、歌人は、人間的深化が求められることはいうまでもないが、同時に、すぐれた歌人として生きるためには、芸術としての和歌の表現機能を深く自覚し、その時代的要求に答えられる創造的透視力を備えなければならない。新古今家風の直接的原動力となった藤原俊成の歌論的言説や実作には、さすがに、そういう歌人的資質のたぐいまれな豊かさを示しているものが多い。俊成は、『古来風体抄』に、「このやまと歌は、ただかなの四十七字のうちより出でて、五七五七七の句三十一字とだに知りぬれば、やすきやうなるによりて、口惜しく人にあなづらるるかたの侍るなり。なかなか深く境に入りぬるにこそ、むなしき空の限りもなく、わたの原波のはたてもきわめも知らずは覚ゆべきことには侍るべかりめれ」と書き付けた。この言説には、人間と和歌とを深奥から一体とする「幽玄体」を創造し、新古今風の担い手たちを育成した大歌人の、「短歌」という短詩形の、あなどりがたく、はかり知れない表現機能を透視した鋭い目が光っている。また、「六百番歌合」の判詞(はんし)の中に、「大方、歌の道、心を言ひ取らんとする歌は詞(ことば)を知らず、詞を思ふ歌は心たしかならず、姿を知れる歌は常に題をそらす、定まれる習ひなり」と書き付けた。『古今集』からの和歌の伝統の世界で歌人として生きるためには、題詠という窮屈な条件の中でも、その「題」を充足し、同時に、「心」と「詞」とを融合させ、しかも、「姿」を時代的要求に答えられるものとしたすぐれた抒情を生みえなければならなかったが、この言説には、伝統的規範の重さと歌壇的批判のきびしさの中を身をもって生きぬいてきた深い体験が響き出ている。
2 新古今の新風
新古今時代の新風歌人たちは、このような俊成を主導者として、醸成され、高揚された機運の中で、きわめて意欲的に、感覚をみがき合い、創造力を高め合い、透視力を鍛え合って、作歌に専念した。その機運をまず強力に促進したのは、藤原兼実の九条家が、歌人的天分の豊かな、兼実の弟慈円や兼実の子良経らを擁して、俊成・定家父子の歌人活動を積極的に支持し擁護したことであった。奇才定家は、俊成の創造した「幽玄体」から作歌の道に踏み入り、九条家を背景として、早くから新風の旗手的光芒を放っていた。後年、定家は、「近代秀歌」に、「昔、貫之、歌の心巧みに、たけおよびがたく、ことば強く、姿おもしろきことを好みて、余情(よせい)妖艶の体をよまず」と書き付け、定家の求めた新風が、『古今集』の紀貫之の知的斉整の抒情とは異なり、表現は幽微、哀切な心の世界があやしいなまめかしさを放つまでに感覚化された美に昇華した「余情妖艶体」の抒情にあることを暗示したが、何よりも、定家の作歌実践そのものがそれを強烈に示していた。定家は、そのような抒情を求めて、あまりに急進的で、作が難解でもあったので、家集『拾遺愚草員外』の注記によると、保守的歌人たちから、「達磨歌」と呼ばれて非難されたし、『無明抄』に、「中比(なかごろ)の体を執する人は、今の世の歌をば、すずろごとの様に思ひて、やや達磨宗などという異名をつけてそしりあざける」と書いている。しかし、定家の新風牽引力も大きく、「幽玄体」を核としながら、その「妖艶体」で新古今風最高潮時の歌風を彩った。そのような新風の世界に生きた歌人たちの作が、それぞれの人間的あり方と作歌対象のあり方とによって、優艶の抒情を基調として、高雅・華麗・豊潤・清艶・哀艶・妖艶といった趣の抒情、誠実・悲愁・寂寥・枯淡・幽寂・夢幻といった趣の抒情、それらの錯落した抒情、さらに、色なき色、声なき声といった幽妙な趣の抒情にまでわたり、『新古今集』を荘厳な美の殿堂にしているのである。しかし、その抒情を支えた表現の特色も見のがせない。
(続く)