悠山人の新古今

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【資料】愛国百人一首2

2005-09-14 17:00:00 | literature
愛国百人一首-本居宣長記念館[全文引用]  
 「一九四〇年代の「愛国百人一首」となると、今日なおホロ苦い思い出を伴って、記憶の片隅にある人も多いであろう」。「宣長のうた」岩田隆(『本居宣長全集』月報3)
 『愛国百人一首』とは、戦時下、日本文学報国会が、情報局と大政翼賛会後援、毎日新聞社協力により編んだもので、昭和17年11月20日、東京市内発行の各新聞紙上で発表された。
 選定委員は佐佐木信綱、斎藤茂吉、太田水穂、尾上柴舟、窪田空穂、折口信夫、吉植庄亮、川田順、斎藤瀏、土屋文明、松村英一の11氏。選定顧問に委嘱された15名には川面情報局第五部長など政府、翼賛会、軍関係者に交じり徳富蘇峰、辻善之助、平泉澄、久松潜一が名を連ねる。
 選考は、毎日新聞社が全国から募集した推薦歌と、日本文学報国会短歌部会の幹事、選定委員の数氏より提出された推薦歌の中から前後7回にわたって厳選したという。選ばれた歌は、「愛国」ということばを広義に解釈して、国土礼讃、人倫、季節などの歌も加え、万葉集より明治元年以前に物故した人に限った(以上、『定本愛国百人一首解説』凡例)。「佐佐木信綱先生略年譜」(『佐佐木信綱先生とふるさと鈴鹿』)には選者についてもう少し詳しい。
 東京日日新聞発案、情報局後援を背景に、愛国百人一首選定を日本文学報国会が行なう。 「選定委員は信綱七一歳をはじめ、尾上柴舟六七歳、太田水穂六五歳、窪田空穂六六歳、斎藤瀏六四歳、斎藤茂吉六一歳、川田順六一歳、吉植庄亮五九歳、釈迢空五六歳、土屋文明五三歳、松村英一五四歳。北原白秋五八歳はこの月に逝去し、土岐善麿五八歳は自由主義歌人として人選に漏れたのであろう。近代短歌の代表者たちが、熱心にこの挙に参加している。」
 「毎日新聞社」という名前は昭和18年1月1日から使用された。
 さて、『定本愛国百人一首解説』に戻る。同書の「諸論」には、選定条件などが詳しく記される。また、宣長の項は川田の執筆である。この本は日本文学報国会編で昭和18年3月20日毎日新聞社より刊行された。手元にあるのは同年7月1日再版70,000部の1冊。表紙は安田靫彦、題簽は小松鳳来。
 愛国百人一首には、宣長以外に、直接の門人としては栗田土満の「かけまくもあやに畏きすめらぎの神のみ民とあるが楽しさ」が選ばれ、また、平田篤胤の「青海原潮の八百重の八十国につぎてひろめよ此の正道を」も載る。
 手元にもう1冊『愛国百人一首評釈』という本がある。こちらは川田順の単独執筆である。本書そのものは、発表された翌21日から朝日新聞に載せたものを補正したもので、更に宣長の項は自著『幕末愛国歌』からそのまま載せたと断ってある。
 その転載したという解説を読んでみると、同一人の執筆でも『定本愛国百人一首解説』とは自ずとその観点は異なる。前著が作者略伝を中心とするのに対して、本書は歌の解説が中心となる。要点を述べると、宣長の桜の美が散る趣ではないと言い、桜と日本精神について高木武の説を紹介。その上で、しきしまの大和心とは日本精神であることを明言する。また井上文雄の「いさぎよき大和心を心にて他国には咲かぬ花ざくらかな」という歌が、散り際の潔さという「最も普遍的な桜花礼讃であり、維新志士の吟詠中にしばしば現はれて来る桜花の歌は、悉く此の思想に属するものだ」と言う。また巻末には、川田の「愛国歌史」と、高瀬重雄の「作者略伝」が付く。本書は昭和18年5月10日、朝日新聞社から刊行された。カバーは斯光と署名のある兜の絵である。
 次に朝日版の解説のもととなった『幕末愛国歌』だが、本書は昭和14年6月1日第一書房から刊行された。本書は「戦時体制版」と銘打ってあり、巻末広告には社長長谷川巳之吉の「戦時体制版の宣言」が載る。
 この本では、序篇「国学者と歌人」に宣長は載る。歌は「敷島の」他2首が選ばれる。
  さし出づる此の日の本の光より高麗もろこしも春を知るらむ
  百八十の国のおや国もとつ国すめら御国はたふときろかも
 解説は類歌との比較などをして詳しい。
 もう1冊類書を紹介する。『日本愛国歌評釈』である。藤田福夫著。昭和17年12月20日葛城書店から刊行された。構成は、皇室篇と民間篇に分かれ神武天皇より本書の編集されたときにまで及ぶ百十首。宣長の歌は、
  さし出づる此の日の本のひかりこまもろこしも春をしるらむ
  思ほさぬ隠岐のいでましきく時は賎のをわれも髪さかだつを
の2首が選ばれ「敷島の」は洩れている。各歌には簡単な語釈、通釈、後記が付く。装丁は山本直治で、富士に桜である。
 何も断り書きはないが、本書と「愛国百人一首」は同時期ながら、一応別 個に選ばれたものである。もちろん重なる歌もある。
 紹介するもう1冊は書道の手本である。『愛国百人一首』神郡晩秋書(大日本出版社峯文荘 昭和18年9月10日刊)、本書は巻末に釈文と略解が付き、巻頭には阿部信行、吉川英治の色紙が載る。
 大変な意気込みで作られたこの百人一首について、『【昭和】文学年表』で当時の様子を窺ってみよう。【昭和17年】 11月14日 「国民操志の培養へ-”愛国百人一首の意義“-」太田水穂・『朝日新聞』〈東京〉 11月21日 「新た世に贈る-”愛国百人一首“選定を終りて-」佐佐木信綱・「皇国民心の精華-反映した万葉歌人の心〈上代〉」斎藤茂吉・「戦につれて-ほとばしる至誠至忠の念〈平安朝より吉野朝へ〉」尾上柴舟・「志士の雄叫び〈幕末〉」斎藤瀏。『朝日新聞』〈東京〉 【昭和18年】 1月1日 「愛国百人一首の意義」井上司郎・『文学』 2月1日 「寄世祝-愛国百人一首のうち伴林光平の歌-」上司小剣・『文藝春秋』 4月1日 「日本精神を伝ふ-愛国百人一首のドイツ訳-」茅野蕭々・『朝日新聞』〈東京〉 6月1日 「愛国百人一首小論」佐藤春夫・『改造』
 通覧して「愛国百人一首」と明らかに関わりのあるものを抜いてみた。遺漏もあるかと思う。いずれにしても、このような大新聞や雑誌ではどの程度国民の間に浸透したのかまではわからない。授業で強制的に覚えさせられたとか、カルタをしたとか、もう少し当時の人の証言を捜す必要がある。また以前、松本城前の古本屋で横文字の「愛国百人一首」を見かけた。てっきり英語だと思っていたが、あるいはドイツ語だったのだろうか。逃した魚はいつも大きい。
[最後に画像「愛国百人一首」表紙絵がある。背景全面に、太陽、富士山、桜、海波。字はすべて墨筆・縦書きで、次のように何とか読み取れた。
  認定 情報局/選定 日本文学報国会/協力 毎日新聞社/
  後援 海軍省/陸軍省/文部省/大政翼賛会/日本放送協会]
  http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/aikoku.html

【資料】愛国百人一首1

2005-09-14 16:00:00 | literature
別冊太陽「百人一首」 1972年/1994年(14刷) 平凡社刊 所収
伊藤秀文 かるたの歴史と遊び(部分引用)(全日本かるた協会会長)
(前略) 大東亜戦酣の昭和十八年暮、小倉百人一首愛好団体が全国にあることを憲兵隊の汁ところとなり、”国家非常時、国民総動員の今日、恋の歌を弄ぶとは何事ぞ”と強いお叱りを受けた。本協会では止むなく、鳩首知恵を絞ったあげく、愛国百人一首を持参して、おそりおそる提出したところ、大いに感激され、大大的に普及せよとの言葉であった。それに意を強くし、全国に指令を飛ばし、第一回愛国百人一首大会を橿原神宮で開催したが、これが最後で、会場も焼かれ、選手も霧散、しばらくは顧みるものもなかった。(後略)
[一組だけ画像紹介されている、読み・取りは 読み札 吉田松陰/身はたとひ/武蔵の野辺に/朽ちぬとも/留め置かまし/大和魂 取り札 とどめおか/ましやまと/だましひ]

【資料】新古今歌風論 2/2

2005-09-14 03:10:00 | literature

3 新古今の技巧
 『新古今和歌集』の表現には、技巧として、古代からの
  序詞(語句の上に冠する六音もしくはそれ以上の修飾語)、
  枕詞(語句の上に冠する五音の修飾語。古くは四音のものも見られる)、
  掛詞(同音異義の語をはたらかせて、一語に二様もしくはそれ以上の意味を兼ねさせるもの)、
  縁語(係り言葉によって、主題の語に縁のある語を照応させて修飾するもの)
の技巧が頻繁に活用されているが、とくに特色を発揮しているのは、句切れと体言止めと本歌取りとである。
 和歌の流れから見ると、万葉歌風では、荘重な五七調が主調であったから、句切れは、おのずから七音句に生じやすく、したがって、短歌では、第二句、第四句に生じやすかった。短歌が中心となった古今歌風以後は、軽快な七五調への傾向がいちじるしくなり、句切れも、おのずから五音句に生じやすく、したがって、第一句(初句)、第二句に生じやすかった。そして、その傾向が絶頂に達したのが新古今歌風であった。第一句で切れるのを「初句切れ」もしくは「一句切れ」といい、第三句で切れるのを「三句切れ」という。「体言止め」は「名詞止め」ともいい、一首の終りが体言で止められるのをいうのであって、万葉歌風から現われているが、その現われ方は、初句切れ、三句切れと同様に、新古今歌風で絶頂に達した。それらの用法は、いずれも軽快に流れすぎて抒情の迫力をとぼしくしやすい七五調の弱点を救っている。
 新古今歌風では、体言止めの作と、三句切れと体言止めとを併用した作とがいちじるしい特色を示している。体言止めは、一首全体の声調の流れをそこでせきとめることによって、抒情を重厚にしている。

4 本歌取り
 本歌取りは、一首の中に有名な古歌の語句を取り入れて詠む技巧である。その古歌を「本歌」という。先行歌の語句を取り入れて詠む技巧は古くからあり、中には、技巧としてのものが、先行歌の改作であるのか区別のつきにくい場合もあるが、新歌風では、主として俊成の影響で、多くの場合、連想によって、あるいは本歌の世界を揺曳させて、一首の含蓄・余情を豊かにする技巧で、この技巧がきわめて頻繁に用いられた。
 0245 橘のにほふあたりのうたた寝は 
     夢も昔の袖の香ぞする(夏 俊成女
 本歌は
    五月待つ花橘の香をかげば 
    昔の人の袖の香ぞする(古今集・夏、読人しらず)。*
 「橘のにほふ」と「昔の袖の香」が本歌を連想させ、一種全体に本歌の世界が重なり、その重層性が優艶な新歌境にしている。『新古今集』の中には、二首の本歌を取っている作も見られる。このような本歌取りの技巧は、漢詩句を典拠とした作にもつながっている。とくに注目されるのは、これも俊成の影響がいちじるしいが、『源氏物語』を最高峰とする平安物語文学とのかかわりであろう。

5 幽玄体
 新古今歌風には、以上に取りあげたもののほか、「客観的表現」といわれている特色がある。それは、体言止めとも深くかかわっているが、根源は「幽玄体」にある。「幽玄体」は、主客融合を目ざした抒情であり、客観的対象が、その重さのままで、その中に作者が生かされなければ達成されなかったからである。また、たとえば、「風更けて」(420)とか「露の底なる」(474)とかいったような、かつて見られなかった言葉のはたらかせ方が見られる、それも「幽玄体」が導いたものにほかならないのである。
                                                   (抄録・終)

* 悠026 参照(2006-1126-yis026 和泉式部歌集026 お姿を)。
*歌論の原稿をまとめているとき、ふと手を止めてTVをつける。放送大学で、古今・真名序らしいなと思って見ていた。漢文をいくつかに区切り、分かりやすく説明する。五分ほどでひととおり済んだ、と思っていたら、なんと延延と三十分ほど同工異曲の鸚鵡返しを続けている。それでも次の素材が出てくるのかなと我慢していたが、とうとうそれで終わってしまった。最後に講座名が「書誌学」と出た。