天竜寺の創建を足利尊氏、直義兄弟に勧めたのが無窓疎石。
無窓疎石は、存命中に国師号を後醍醐天皇(夢窓国師)、光明天皇(正覚国師)、光厳上皇(心宗国師)から賜与され、亡くなってからも4人の天皇
から国師号(普済国師、玄猷国師、仏統国師、大円国師)を賜与されていることからも非常に優れた人物であったことが分かる。
無窓国師は、天竜寺の創建より前にも足利尊氏兄弟に元弘の乱以来の戦没者の霊を弔う趣旨で、全国に安国寺、利生の建立を勧めている。
(この建設は、1337年から始められ、1345年に北朝に奏請し、正式にこの寺塔名を決定したもののである。)
無窓国師は、後醍醐天皇を弔うためと足利兄弟に天龍寺の創建を勧めたが、当時室町幕府は、南北朝の戦乱のための費用と部下への恩賞を気前
よく与えたために、財政が逼迫していた。尊氏は、天龍寺造営のために備後国、日向国、阿波国、山城国などの諸国を寄進したが、資金不足で建設が
進まない。そこで、元との貿易をすることで、寺の建設資金に充てることにした。これが俗にいう天龍寺船。
無窓国師に最初に国師号を賜与したのは、後醍醐天皇であるが、夢窓は足利家とも縁があり、足利家の内紛である観応の擾乱では調停も行っている。

建物は、何度も火災に遭っているが、庭園は今もなお天龍寺創建当時の面影を残している。
無窓国師は、世界遺産登録の西芳寺とこの天龍寺の他にも多くの作庭をしている。

方丈の中にある龍の襖絵。アクリル板で覆われているので、外の庭園と鑑賞している人々が写り込んでいる。
これが面白い。

曹源池と呼ばれる池を中心として、手前に白砂を敷き緩やかな池汀としている。この池は何度か改修されているらしい。
奥には立石を配し荒磯や石組を組むなど、日本古来の州浜景観と大陸由来の山水景観が見事に調和している。

背後の山並みをうまく取り込んでいる。

美しい庭が見られるのも日々の手入れのおかげだ。