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花、蝶、ペット、旅行など。
韓国文化の紹介。

戦後75年の記憶、(過去ログ)、行進

2020-07-26 12:00:00 | 学問

後ひと月弱で、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。

昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。

 

 

小学校(国民学校)の体操場へ疎開して来ていた、松本50連隊の兵達は、ほとんど兵隊としてやることがなかった。
練兵場が無いのである。
校庭はあっても、もはや、薩摩芋畑と化していた。
炊事洗濯の他は、歩くことくらいで有った。
戦地での行軍の訓練であろうか、長い列を組んで、市内を歩き回ってばかりいた。

遠くから、兵達の足音が聞こえてくると、宿題を放り出して、外へ飛び出したものであった。
近所中の子供達が飛び出して来て、兵達と手をつないで歩いたものだった。
歩くと言っても、子供達に歩調を合わせてくれるわけではない。
兵達の歩く速さに、子供たちは、駆け足でついて行くだけで有った。
いい加減走らされると、さすがに疲れて、ついていけなくなり、手を放して、家路をたどった。

どう言うわけか、兵達と子供達の間には、心の絆の様なものが有った様だ。
二十歳を超えたばかりの兵と、子供たちの間には、ちょっと、歳の離れた兄弟の様な感覚が有ったのかもしれない。
軍部にしてみれば、将来の戦力として必要な、子供達のことを考えて、可愛がってやれと言う様なな指導がなされていたのだろうか。

学校でも、家でも、兵達は、お腹がすいて可哀想だと、よく聞かされた。
実際、食料が足りなくて、育ち盛りの若い兵達には、ひもじい毎日だったのかもしれない。
何か、食べるものがあったら、渡してやれ、と言う様なことを言われた記憶がある。
行進で手を繋いでもらう礼の様な気持ちで有ったろうか。
子供達は、母から渡された何がしかの食べ物を、手に握りながら、手を繋いでもらった兵に、それとなく握らせていた。
mcnjも、干した残飯を炒ったものや、炒った豆などを母からもらって、兵に渡していたものだった。
兵達は、歩きながら、渡された、わずかばかりの食べ物を、大事そうに、軍服のポケットにしまい込んでいた。
よく洗濯された兵の軍服の石鹸のにおいが、今でも、懐かしく思い出される。


戦後75年の記憶、(過去ログ)、欲しがりません勝つまでは

2020-07-24 12:00:03 | 学問

後ひと月弱で、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。

昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。

 

3時のおやつと言うものをもらったことが無かった。
そんなものがあると知ったのも、戦後、しばらく経ってのことで有った。
家が貧乏だったことも有ったが、戦争の遂行に明け暮れしている世の中全体に、そんな余裕が無かったのだろう。

表題は、軍部が戦争遂行のために、国民に強要したスローガンの一つである。
家でも、学校でも、こうしたスローガンを叩き込まれた。

他にもいくつか有ったが、忘れてしまった。

贅沢は、敵だ。
鬼畜米英。
貯蓄に励もう。

こんなスローガンも有ったと思う。

国民は、なけなしの生活費を削って、郵便貯金に励まされた。
貯金した金は、膨大なインフレ政策によって、只同然になり、その過程で、戦争遂行のための戦費と化して行ったのである。


戦後75年の記憶、(過去ログ)、灯火管制

2020-07-22 12:00:00 | 学問

後ひと月弱で、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。

昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。

 

戦争も、末期になると、信州のような山奥にも、敵機が飛来して来るようになった。
学校や、公共施設のそばには、防空壕が掘られていたが、やがて、各家庭にも防空壕を設置するようとの指示が出された。
ほとんどの家には、防空壕が掘れる様な場所は無かった。
各戸は、玄関先や屋敷内の地下に竪穴を掘って間に合わせていた。
直撃を受けたらどうしようもないが、横からの爆風くらいは、何とかしのげそうであった。
しかし、焼夷弾などで、延焼をうけたら、ひとたまりもなさそうであった。
爆風を避けたら、飛び出して、どこか、安全な方向へ避難するためのものであったと思う。

兵達が疎開してきた学校などの施設には、資材さえあれば、兵達が、横穴式の、立派な防空壕を作っていた。
もちろん、敵機が飛来して、攻撃してきたら、兵達が避難する場所で、生徒などが、逃げ込める場所ではなかった。
防空訓練が何度かあったが、低学年は、自宅へ帰って待機すること、高学年は、校舎から離れた場所に避難して、敵機が去った後、防火作業を手伝うと言うもので有った。

松本には、都会から疎開して来た生徒が大勢おり、クラスにも、1,2名は必ずいた。
戦争末期には、そろそろ、松本も危ないと言って、さらに、山の中の山村へ、疎開していくものもいた。
実際、松本の住民さえ、疎開を真剣に考え始めていたのであった。

やがて、夜になると、米機が編隊で飛来する様になった。
暗くなると、各戸は、電球の周りに、黒布をかぶせて、灯りが外に漏れないように気を遣わされた。
敵機がこの地方へ向かっているとの情報がつたわると、サイレンが鳴って、一斉に、消灯が指示された
敵機が通過するか、他にそれるかがはっきりするまで、人々は、暗黒の中で、息をひそめていた。
サイレンが止むと、灯火管制が解除となり、黒布をかぶせた灯りが灯された。

ある晩のことである。
また、けたたましいサイレンの音が聞こえ始めた。
あちこちから聞こえてくるサイレンの音から、なんとなく、只事ではなさそうな気配が感じられた。
父と母は、近所の役割があてはめられていたのだろうか、夕がたから家にはいなかった。
暗闇の中で、ひっそりとしていたmcnjのところへ、突然、母が帰って来た。
母は、何か、忘れ物をしたらしく、真っ暗な中で、探し物をしていた。
しばらく、もぞもぞしていたが、どうしても、忘れた物が、見つから無かったのであろうか、決心した様に、
電灯のスイッチを入れた。
そして、目的の物を見つけたのか、電気を消して去って行った。

それから、数分後であった。
突然、大きな炸裂音がして、古い木造の家が、揺れ動いた。
後で聞いたのであるが、市内から、4kmほど離れた山の中に着弾したとのことで有った。
松本の人間たちは、アメリカは、誰もいない山の中に爆弾を落として、馬鹿なことをするものだ。
これでは、日本に勝てるはずが無い、と、喜んでいた。

この爆弾が、松本に落とされた、唯一の爆弾で有った。
この後、数日して、終戦になった。

あの夜、母が点灯した灯りが、着弾のきっかけだったかどうかは、わからない。


土手の様子、2020.7.中旬、相変わらずの不届き者、

2020-07-21 12:00:00 | 学問

バードウォッチャーのご夫婦です。

 

 

雉を探しておられました。

いました。

双眼鏡ならくっきりみえましたが、300mm望遠では、この程度が限界です。

 

 

 

 

こちらは、、近くの電線です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相変わらずの不届き者。