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花、蝶、ペット、旅行など。
韓国文化の紹介。

戦後75年の記憶、(過去ログ)、供出

2020-07-20 12:00:14 | 学問

 

後ひと月弱で、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。

昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。

 

昭和20年4月、mcnjは、2年生になった。
戦況はますます厳しくなって来ていた。
教室で話す教師たちの会話からも、その容易ならざる戦況の様子が伝わって来た。
国民は、食うものにも事欠く様になっていたし、軍部には、制空権を奪われて、燃料や物資の補給もままならず、戦争を遂行する手だてにさえ事欠いている始末であった。
飛行機や、戦艦を建造する材料が無いと言って、国民に、鉄、銅、他、貴金属などの供出を迫った。
生産や、生活に直接関係の無い、ふすまの取っ手、柱の釘、余分な鍋、フライパンなど、手あたり次第供出させられた。
供出は、1回だけで無く、戦況がひっ迫するたびに、たびたび行われたのであった。
我家は、貧乏だったので、そう、金目のものは無かったが、有る所では、結婚指輪なども供出させられたとのことであった。
日本が勝つためには、あらゆることをしようと言う、国民の気概もあったのだろうが、内心は、隣近所のタレ込みを恐れたのであろう。
戦時中には、向こう三軒両隣と言う、自助組織がもうけられて、お互いに協力し合ったのであるが、一方で、互いに、監視させる機能も果たしていたのである。


土手の様子、2020.7.中旬、花泥棒

2020-07-19 12:00:07 | 学問

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遅咲きのオルレア

 

 

 

 

 

 

 

 

コスモスの花や紫陽花を盗む、不届き者がいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

釜茹でにされた石川五右衛門が、釜の中で歌いました。

浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ

 

おまけ。

先日アップした、モンキアゲハの、残りの写真です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


戦後75年の記憶、(過去ログ)、朝鮮人

2020-07-18 12:00:00 | 学問

後ひと月弱で、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。

昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。

 

mcnjの住んでいた所は、松本市の旧市内のはずれであった。
その先は、今では松本市になってはいるが、その当時は、田畑が広がっている村であった。
松本の人間は、在と呼んでいたが、在から街に買い物に来るなどと言って、多少の、優越感をもっていたようである。
小学校1年生のmcnjには、在が何を意味するのか、知る由もなかった。
兄たちが、あいつらは、ザイッポだからな、などと言っているのを聞いて、街の人間とは、多少違うのかなと言うくらいの意識しか無かった。

mcnjのいたすぐ近くに、金山町と言う町があった。
すぐ隣町で、小学校区も一緒であった。
同じ町内の様なもので、学校でも、家でも、良く、子供同志で遊んだものであった。
町の名前から、すぐに察しが着くと思われるが、朝鮮人の多く住む所であった。
当時は、日本全国にあった、朝鮮人町の一つに過ぎなかったのであろう。

彼らが、なぜ、そこにいたのか、どのようにして、生計を立てていたのかなどは知らなかったし、知る由もなかった。
彼らが、強制連行されたのか、日本の新天地にあこがれて来たのかを、議論するつもりはない。
タイトルにある通り、ここに記されるものは、小学1年生の見聞きした幼い記憶だけである。
幼い記憶ではあるが、出来るだけ忠実に思い起こして書き残しておきたいと思う。
戦中戦後を経験した、今では数少ない語り部の一人として、義務の様なものを感じている。
小学1年生の見聞ではあるが、戦中戦後の真実を知る者の目から見れば、戦争に関して、喧々諤々と議論している、今の政治家達は、嘴の黄色いひよこか、鼻垂れ小僧くらいにしか見えない。
そんな鼻たれ小僧に、この国の未来を託して、いいものかと言う思いが、mcnjにはある。

朝鮮人の女たちは、気が強い。
女だけではなかったが。
国民性と言うものもあったかもしれないが、異国の地に来て、目いっぱい生きて行かなければならない面もあったのであろう。
朝鮮人の女同志で、良く喧嘩をしている所を見かけた。
殴り合いはしなかったが、取っ組み合って、髪の毛を束で掴んで引きずり回すようなことは、当たり前であった。
片方は、髪の毛を引き抜かれて、頭から血を流していた。
mcnjは、母の陰に隠れて、遠くから眺めているだけであったが、怖いものだと思っていた記憶がある。

夜になると、灯火管制で、町は暗闇に包まれるが、突然大声が聞こえて来た。

ポクウ~、ポクウ~、
ハヤクコ~!
チヌデ コ~!

夫婦喧嘩か、近所の日本人との軋轢でもあったのであろうか。
mcnjは、暗闇の布団にもぐって、震えていた。

ボクが、僕なのか、朴だったのかはわからない。
当時の朝鮮人は、皆、日本名を名乗らされていたから、たぶん、自分たちの本名の朴だったのかもしれない。

兄達は、朝鮮人の学友をからかうときに、良く言っていた。
朝鮮人の母親が、わが子を庇うときに、兄達をしかりつけて言った言葉である。

チョウセンジン、チョウセンジント、パカニスルナ。
オナジ メシクテ トコチガウ。
ウソタト オモタラ ベントパコ ミロ、ベントパコ。

mcnjは、この家の子供と、中学卒業まで一緒であった。
遊ぶ時も、学ぶ時も、仲の良い友達であった。
彼が、今どうしているか、気にはなっているが、知らない。
mcnjと同じように、どこかで、戦後70年の出来事を、思い出していてくれるなら、ありがたいことであるが。


ここで、誤解の無いように、一言付け加えておきたい。

本稿で、mcnjは、朝鮮人と言う言葉を、差別的に使った意識は、毛頭ない。
mcnjは、日本の化学会社に勤務した後、定年の3年前に、韓国の化学会社に出向となり、そのまま定年退職した。
退職後、そのまま、韓国の友人m,cの二人と、mcnjの3人でソウルに会社を興した。
mcnは、3人の頭文字である。
これに、japanのjを付けてHNとしている。
韓国では、m,cの他にも、たくさんの友人と付き合っている。
朝鮮と言う国名の起源であるが、秦漢以前にさかのぼり、朝が鮮やかな国と言う意味で、中国に対抗して付けられた名誉ある国名である。
のちに、李王朝の時の朝鮮と区別するため、古代朝鮮を古朝鮮と呼んで区別する。
韓国では、朝鮮と言う言葉は、忌み嫌われる。
これは、北朝鮮が、朝鮮を名乗っている面もあるが、mcnjが、ソウルの友人に、
どうしてお前達は、朝鮮と言う由緒ある言葉を嫌うのかと質問した時、このような返事が返って来た。

李氏朝鮮が、日本によって受けた屈辱を考えると、朝鮮と言う言葉は聞くに耐えられない。

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土手の様子、2020.7.中旬、黒いアゲハ蝶

2020-07-17 12:00:00 | 学問

オニユリが咲いてきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヤブカンゾウが満開です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シロシキブです。

 

 

 

オイランソウも頑張ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長梅雨の中、ナガサキアゲハでしょうか、待望の黒いアゲハ蝶が来てくれました。

kazuyoo60さんが、教えて下さいました。

この蝶は、モンキアゲハだそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 


戦後75年の記憶、(過去ログ)、君が代

2020-07-16 12:00:16 | 学問

後ひと月弱で、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。

昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。

 

不思議なことに、戦後70年の記憶として、真っ先に残さねばならない、君が代の記憶が、あまりない。
教室でも、教えてもらったし、毎週月曜日の朝礼でも、歌わせられた。
歌詞の意味が、小学1年生にとっては難解でありすぎたのかもしれない。
何かの儀式のときに歌うものだくらいの認識だったのだろうか。
教師はじめ、高学年の生徒たちは、直立不動の姿勢で歌っていた。
1年生達は、周りを見習ってそうしながら、口を動かしていたかもしれないが、はっきりした記憶が無い。