言葉のクロッキー

本とかテレビその他メディアから、
グッと感じた言葉・一文などを残してゆきたい。
その他勝手な思いを日記代わりに。

松永安左エ門

2011-04-23 | 語録
隠遁中の松永に対し

僧侶:
「世の中を、つまり他人をはなれて、自分を完成するということはありませんよ」
「世の中のため、他人のためにいかに役に立つか。そういう考えのもとに働くとき、そこに人間の完成があるのです」 
と説得したが、

松永の考えは

「・・・相当力のある人が、その十分の一を他に用いるというような場合は別であるが、
われわれのような、
自分自身、非常に欠陥をもち、
力が足りず、
いかにして、自分を満たすかということに努力しているものは、
いわば人間の不具者である。

その不具者の自分が、
十全の人間にならぬうちに  でしゃばっていろいろなことをするのは、
いわゆるおっちょこちょいであり、
でしゃばりであり、また功名心である。
あるいは欲望というものが、そういうところから発するのかもしれない。

その本をはっきり断たない間は、世の中にでしゃばるべきではない・・・」
                                    「隠居日描」

第54回野村狂言座

2011-04-18 | 能・芸能

2011年4月15日 宝生能楽堂

番組

・『鼻取相撲』  大名:深田博治
          太郎冠者:野村萬斎
          新参者:月崎晴夫

・『見物左衛門』  見物左衛門:石田晴夫
   (花見)

・『舎弟』    弟:竹山悠樹
         何某:野村万作
         兄:野村萬斎

・『蛸』     蛸の霊:野村万作
         旅僧:高野和憲
         所の者:中村修一

「見物左衛門」を除いて、初めて観た番組だった。また「蛸」を除く番組は、狂言としてよくあるパターンの内容展開だった。それだけに小謡・小舞や演技表現などを楽しめた。演目解説による「蛸」に関して引用すると「旅の僧が亡霊と出会い、土地の者に子細を教わる、という展開は能と同じだが、能では美しい女性や若き貴公子などの霊が登場するところを、蛸の霊を出すというのが狂言らしくおもしろい趣向である。後半再登場した蛸の霊は、能のようにカケリを舞い、張り蛸にされた自らの最後の様子を、大まじめに謡い、舞う。徹底的に能をパロディー化した構成、演技がおもしろい作品である」と解説されている。万作師がこの解説のとおり演技されたのはさすがですごいと思います。でもちっとも面白くない・・それに客席もシンとしてるというのはどういうことなんだろう。思うに笑いが起こる前提は、客は能を良く知っていることであり、かつ狂言師は風刺的な演技を徹底するということではないのかなと思う。客席があんなにシンとしてたのは能を知ってる人が少なかったということと、万作氏の演技が本物過ぎて隙がなかったような気がする。あれが野村狂言座のスタイルというのであればしかたないのだけれど、狂言としては決まりすぎてるのではないかなーと思った。「蛸」が出てくるから狂言なのだとは思いたくない。シテがどのような亡霊・生き物であっても能とは違う狂言の世界であってほしいと思う。もっとくずした能的狂言劇を観たいと感じた。

石川 遼

2011-04-10 | 語録

 『これで終わるわけじゃない』

  ・・・・・・・

 『気持ちの強さとは、つまり練習量だと最近、分かった。
   
  たくさん練習してきたかいがあった』


   2011年、男子ゴルフのマスターズ・トーナメントで、19歳の石川は、
   通算2アンダー142、3度目の挑戦で初めて予選通過を果たした。