平成30年4月18日 矢来能楽堂
番組
● 連吟 「高砂」サシ・クセ 九皐会社中13名
● 仕舞 「敦盛」クセ 小玉三郎
「井筒」 長山禮三郎
地謡:河井美紀 長山耕三 遠藤和久 坂真太郎
● 仕舞 「三井寺」 永島忠侈
「野守」 津村禮次郎
地謡:新井麻衣子 小島英明 遠藤和久 桑田貴志
● 仕舞 「誓願寺」 観世喜之
地謡:中森健之介 坂真太郎 鈴木啓吾 小島英明 桑田貴志
● 能 「卒塔婆小町」
小野小町:中所宜夫 後見:観世喜之 永島忠侈 奥川恒治
高野山僧:宝生欣哉 従僧:則久英志
大鼓:亀井忠雄 小鼓:飯田清一 笛:一噌庸二
地謡:観世喜正 佐久間二郎 永島充 鈴木啓吾 遠藤喜久 中森貫太 弘田裕一 駒瀬直也
当時の卒塔婆は今墓地で見かける卒塔婆とは違うみたいだ。薄い板で作られてるのではなく、大人が休んでもなんの問題もないくらいの丈夫な素材だったようだ。登場する老婆は道端に倒れ転がっている朽木に腰掛け休んでるところを、通りかかった僧侶に「それは卒塔婆だから、尻の下に敷くことはいけないことだ」と老婆に忠告するが、老婆は逆に僧侶に向かって、何の問題があろうかと僧侶の戒めの数々を論破する。言い負けた僧侶が「一体あなたは誰なのか?」と問うと、老婆は「自分は、小野小町のなれの果て」だという。そしてその昔、自分を恋焦がれて慕ってきた男をいたぶって、「100日の間、毎日通ってきたら、会ってやる」というと、男は忠実に実行するが、後1日というところで、倒れ空しくなってしまう。爾来小町は男の妄執に責められ成仏できそうもないという。そこで僧侶はありがたい念仏を唱えると、老婆に男が憑依し、狂う。しかし念仏の功徳で、男は成仏し、老婆も夢から覚めたように穏やかになり、物語は終わるのだ。 そんなお話のようなのだけれど、詞章は難しくて聞き取れないし、分からない。老婆の登場にしても、とにかく長い、時間的に長い。その間、お囃子の面々が延々と「あー」「ほー」「いやー」とか演じてるのだ。やっと幕が上がっても5メートル位先の本舞台にたどり着くまで、これがまた時間的に長いのだ。老女ものの鑑賞は、だから現代日常のテンポを忘れ、時間が目の前を流れてゆくのが見えるくらいゆっくりとした環境に自分を置くくらいでないと、身が持たないのだ。いまの若者にはまず耐えられない苦行を伴う。登場ですら、その調子だから、全編となると、初めて鑑賞する人にとっては苦行以外の何物でもないだろう。謡いを知り、所作を知り、もちろん物語を知り、装束はじめ、共演の方々の苦労を知って初めて、能、老女ものが理解できるのかもしれない。シテ小町を演じた中所師は、芸歴30年、還暦を迎えた、この日、許されて卒塔婆小町を演じた。良いとも悪いとも自分には、言えないが、よくやったと思う。この役は心身強靭でないとできない。日々自堕落に過ごしていては到底この役はできないことは判った。小町にトリついた男の無念を演じたかと思えば、憑依から覚め生まれ変わったかのような小町を演ずるのは容易では無いけれど、「ああ、呪いが解けたのね」と感ずるエンディングでした。