言葉のクロッキー

本とかテレビその他メディアから、
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その他勝手な思いを日記代わりに。

能「大原御幸」

2016-09-23 | 能・芸能
『大原御幸』  能楽BASARA  第二章-Ⅲ 平家物語
2016年9月18日 国立能楽堂

番組

●解説 「まのあたりに平家物語を」   林 望

●仕舞 「屋島」   観世喜之

●狂言 「奈須与市語」   野村萬斎

●能  「大原御幸」
              女院:駒瀬直也  大納言局:坂真太郎  阿波内侍:永島充 

              法皇:観世喜正  萬里小路中納言:森常好  大臣:工藤和哉  輿昇:森常太郎 高井松男

              後見:奥川恒治  遠藤喜久         間:中村修一

              大鼓:佃 良勝    小鼓:鵜沢洋太郎    笛:松田弘之

              地謡:関根知孝 桑田貴志 小島英明 佐久間二郎  鈴木啓吾  中所宜夫 弘田裕一 中森貫太


平家一門を滅亡に追いやり自らの院政を獲得した後白河法皇。一方平家方にあって壇ノ浦で入水するが、海より引き上げられ生きざるを得なくなった建礼門院徳子。草深い大原の奥の寂光院で、静に平家一門の供養をしてひっそりと暮らしているある日、法皇が訪れ、地獄を生きながらえたその様を語ってほしいという、とんでもなくものすごい曲「大原御幸」。
お調べのあと囃子方、地謡と着座。次いで後見が引廻しをかけた大藁屋の作物を大小前に据えて退場。舞台が整う。しばらくしてワキヅレの大臣と狂言方が登場。大臣は常座を過ぎたあたりで名ノリ。法皇の大原御幸のため道を清めるよう告げる。ひそひそとお囃子が始まり、大藁屋の引廻しがとりはずされると、女院を真ん中にして3人の尼が姿を現し、場面は大原の寂光院になる。「山里は・・・」とシテが謡い出す。静かな山あいにサラサラと流れる渓流の音と共に流れてゆくかのような風情を感じる。「山にシキミを摘みに行こう」と女院と大納言局が幕に消える。ワキの一声があり法皇の登場。「ヤマホトトギス・・・・」と謡いあげた亡き閑さんを思い出す。再会する二人。二人は身内のようなものなのだ。「なかなかになほ妄執の閻浮の世を・・・・」とシテのクドキ。名文句、名調子が続く。法皇は女院にいう。「六道の有様正に御覧じけるとかや・・・」と催促。女院は合戦の様を語る。それを聞いて法皇は「まことにありがたき事どもかな」という。良く解らない。次いで孫、安徳天皇の最後の有様を語ってほしいという。仏に帰依した二人にとっては淡々としたことなのかもしれない。女院の語り「その時の有様申すにつけて恨めしや・・・・」。曲のクライマックス。シテの一セイ「今ぞ知るミモスソ川の流には波の底にも都ありとは」と建礼門院の絶唱なのだ。「不覚の涙に袖を志をるぞ恥ずかしき」で打切。還幸する法皇。見送る三人の尼。ほんとにこんなことがあったのだろうかと思う。ワルの後白河法皇。手折れそうな建礼門院。しかしロマンに溢れた曲と思う。舞台から誰も居なくなる直前まで静まり返っていた見所から、しめやかな拍手が沸き起こる。2時間近い大曲だけれど、想像に溢れたインパクトのある舞台だった。

映画 「聲の形」   

2016-09-19 | 映画 音楽
英語名: 「The shape of voice」
監督:山田尚子   制作国:日本   制作年:2016   上映時間:129分

映画のタイトルに興味を持って観に行った。予約なしでいったけど、朝9時前から上映というのに満席。久しぶりに前から3列目の席というほぼ、かぶりつきで観ることになった。声が頭から降ってくる。画面が目の両際いっぱいに広がっている。アニメは久しぶりだ。

「聲の形」というのは、つまり手話。手話が物語の展開に大切な役割を果たす。物語そのものは青春モノ。小中高にわたってある少年と少女の出来事が綴られる。少女は教室に転校してきたときから、聴覚障害。ノートに書いて意志の疎通をするしかない。クラスのいじめっ子の代表みたいな少年は少女を徹底的に苛め抜く。転校してゆく少女。自殺寸前までいった少女の親による学校批判。今度は徹底的に孤立に追い込まれた少年。悔い改め悔恨の日々を送ることになるが、あるところで、再びその少女と再会する。心から謝る少年、その態度でやっと許す気になった少女。しかし言葉が通じない。少年に心を開いてゆく少女だけれど、気持ちが通じないもどかしさに絶望し、飛び降り自殺をしようとするが、すんでのところを少年が助け上げる・・が代わりに少年が落下してしまい、生死の境を彷徨う。・・・ともかく物語は劇画である。物語はまだまだ続く。漫画とアニメとは基本的に違う。漫画での読者一人ひとりの受け取り方の幅みたいなものが広いと思うけれど、アニメは制作者の主観で決まってしまう。おそらく漫画で共感した読者は映画には失望してるかも知れにない。きれいな画面・キラキラ輝く大きな目の少女たち、熱演する声優、綿菓子のようなBGM.などなど。感動的に若い児向けの映画なのだ。  しかし「聲の形」、手話は態度・手足・目などの動きを伴ってこそ感動的なカタチをつくるもののようだ。

映画 「グッドバイ サマー」

2016-09-16 | 映画 音楽
原題 「MICROBE ET GASOIL」  製作年度:2015   上映時間:104分  製作国:フランス 
監督&脚本: ミシェル・ゴンドリー    音楽:ジャン=クロード・ヴァニエ

「グッドバイ サマー」という映画名からは、なにか甘酸っぱいひと夏の思い出みたいな映画かなと感じてしまう。でも原題は「デブとノッポ」みたいなものだから、フランス人が日本名を知ったら嗤ってしまうかもしれない。

14歳のクラスのはみ出し者二人。好奇心、冒険、世間知らず・・・。一人は絵が上手でもう一人は機械いじりが大好きである。その少年は廃棄業者のところにあった2気筒のガソリンエンジンを見つけ、親に内緒で買って帰り、自分の部屋で廃棄ガスにまみれて再生させる。ぜんそくで苦しむ母のことなどおかまいなしの自己中ぶりだ。再生したエンジンを動力として、廃品を拾い集め、二人は奇妙な自動車を作り上げる。掘っ立て小屋のような外観、大きな立形のドア、木のベット、小さな机、長椅子のような運転席、大きなフロントガラス、リアエンジン・・・・・・つまりお手製のキャンピングカーなのだ。そして公道を走りだす。4つの車輪は板で隠せるようになっていて警察官も気付かない。こうして14歳の少年達は夏休みのドライブをする。様々な出会い、経験、苦労を重ね、遥か山を越えてのろのろと走る。でもやがて駐車した場所が悪くて、燃やされてしまう。それでも修理して走りだすけど、今度はブレーキがきかなくなってしまい、坂道を転がるように走るのでついに脱出。手製の車は崖から転落、あえなく川の藻屑となり、二人は歩いて遠い道のりをスゴスゴと空腹を抱え家を目指すのだった・・・・・・・

観た映画をきっかけに、ふと遠い昔を思い出すことがある。少年たちにとってひと夏の出来事、一刻一刻は、ほかのことを考える余裕等ないだろうけれど、数十年経てフトその一時がよみがえったとき、かけがえのない己の人生の一コマを思いだし、空を見上げるものだ。「グッドバイ サマー」はその原風景のサンプルなのかもしれない。取り立てて面白いというわけでもないし、悲壮というものでもない。BGMもそれに合ったゆるい、猫が長々と寝そべっているような音楽だ。 観た映画館もレトロだった。60年以上にもなるらしい。二階への階段脇にはこれから上映予定のチラシや、ポスターでいっぱいだ。二階フロアーには年若い兄ちゃんが、売店とチケット販売をかけ持ちで働いている.館内の通路には予備の椅子がたくさん積み重ねられている。でもトイレくさいわけでもなく、ゴミくさいわけでもない。若いおねーちゃんが小さな声ながらも良く通る声で、場内入れ替えの案内をしている。館内の椅子の座り心地は申し分ない。良く掃除されており清潔。本編の前に予告編が2~3本。しかしあのニュース映画がなくなって、もう何年になるだろう。いまどきのアナウンサーや声優にもない、独特の明るさ、緊張感のあるナレーションで語られた白黒のニュース映画。代議士の汚職、華やかな芸能人の一コマ、汗まみれの男たち、ショッキングな海外の報道・・・・みんなみんな刺激的だったのだ。あの「刺激」を最近の映画館に感じない。現代は、すぐれてその映像美、高機能・環境を享受しているが、思い出として残るものは少ないのではなかろうか。ひたすら前を、前を・・・・時代に遅れないように・・・という気がする。