言葉のクロッキー

本とかテレビその他メディアから、
グッと感じた言葉・一文などを残してゆきたい。
その他勝手な思いを日記代わりに。

図書館借本H23前半

2011-09-10 | 読書 本
図書館から借りた本 1月~6月
1.『夏を拾いに』
2.『見る技術』
3.『地拍子のすべて』
4.『Smoke line』
5.『江戸っ子の倅』
6.『天地明察』・・・・・江戸時代に天体の動きを日本で初めて数学的な観点から推察し、当時の暦を改革した人の読みもの。この人・・安井算哲はもともと囲碁の家を世襲する囲碁の達人なのだけれど、結局は囲碁の世界に生きることを選ばず、好きな算術でもって日本の暦を一新してその基礎を築いたとのこと。当時の暦というのは実生活に密着したもので膨大な利潤を得ることができた、大きな利権だったようだ。当然公家が占有していたけれど600年余りもただ踏襲してたので正確ではなかった。これに算哲は挑戦したのだ。武家と公家のメンツの争いに、関孝和など多彩な実在した有名人が登場し面白い。
7.『まかり通る』
8.『春の草』
9.『永遠のゼロ』・・・・・「ゼロ」とは戦闘機のゼロ戦のことだ。神がかり的な天才パイロットを主人公に、戦争の不条理を描いた文庫本。「御国の為に」という教育が徹底していたあの昭和の一時期、兵隊の生命に対する概念は、国の為に死することに何のためらいも、疑問も抱かせなかった。そんな中で確実に帰還してくる主人公。時には自己機のみのことも。周囲の誹謗中傷にもめげず、ひたすら自己の信念に従い敵機と戦闘を繰り返し帰還する。しかしついに特攻の命に服し、大空に散って行く。いくら人を教育しても根源に内在する喜怒哀楽は消すことはできないのだ。
10.『やる気のない刺客』
11.『草笛の剣』

大半が時間つぶしに終わったが、6と9は印象に残った。


 2010年 1~12月

1.『あかね空』  2.『ハッピーリタイアメント』  3.『櫻守』
4.『食う寝る座る永平寺修行記』  (抜粋)ようするに道元の示す修行とは超能力や特殊な瞑想でもなくまた難行や苦行でもなく、日々の行いそのものの中に見出されるものなのである。そして目的と手段を二分しない。悟るための修行ではなく、そのひたすら修行していく姿がすなわち悟りだと考えた。したがってそれは何者かに委ねるものではなく、自分自身の心と体で成しとげなくてはならないのだ。  我見を捨て去る 自分が自分であることを捨て去りひたすら自己の無に徹し、長を敬い、長に従い、黙々と日々の務めを遂行する。しかしこんな風に頭の中で考えたところで、そう簡単にこの大切な自分を捨て去るなどということができるわけがない。ましてわれわれはすべての存在を自己という立場から考えるという近代西洋哲学の影響のもとに教育されてきた人間である。そこでその自己に縛られている人間を罵倒打ちゃくし、徹底的に打ち砕くのである。その人間が引きずってきた学歴や地位名誉財産そして人格までも、何もかもを一度ズタズタに引き裂き墜ちるところまで落とし、そうすることによってすべてを捨てさせるのである。師と弟子の関係は昔からとにかく物騒なものだった。棒でぶん殴り蹴り履物で頭をひっぱたく。しかしこれらの行為を「暴力」と判断し批判するのは早急すぎる。打ちゃくはすべて「暴力」と判断する前に、その打ちゃくについて、根底にある目的を見極めてから判断しなければならない。 永平寺の修行はわれわれには何も教えてはくれない。 この延々と繰り返される日々の中で、じぶんの心と体でつかみ取るものなのである。
 5.『跡無き工夫』  6.『赤絵の桜』  7.『秘太刀馬の骨』  8.『凶刃』 
 9.『又蔵の火』  10.『暗殺の年輪』  11.『銭売り賽蔵』  12.『欅しぐれ』
 13.『機長の告白』  14.『峠越え』   15.『楊家将 上下』 
 16.『日々・着物に割烹着』  17.『白日』 18.『杖下に死す』 
 19.『血涙 上下』  20.『独り群せず』 21.『黒人リズム感の・・』 
 22.『サッカーの敵』  23.『魂の酒』  24.『家族の言い訳』 
 25.『へうげもの古田織部伝』  26.『虚空のランチ』
27.『ノルウェーの森 上下』   28.『思い出すこと忘れえぬ人』  29.『旅人』
30.『ココ・シャネルという・・』  31.『グーグル秘録』 32.『KITANO par・・・』

第二十四回としま能の会

2011-09-09 | 能・芸能
番組                  池袋・サンシャイン劇場

・解説  横浜能楽堂館長 山崎有一郎

・宝生流舞囃子『天鼓』  シテ:水上輝和

・和泉流狂言『蝸牛』  シテ:野村萬  アド:野村扇丞  小アド:野村万蔵

・観世流 能 『紅葉狩』鬼揃え シテ:観世喜正 ワキ:宝生欣哉  
                ツレ:奥川恒治 鈴木啓吾 古川充

劇場の舞台に能舞台を設置しての演能。豊島区では当初近くの公園で野外能をやっていたらしい。天候の影響や観客のこともあって、いつからか屋内でやるようになった。やはり橋懸りの設営には無理があるように感じた。演者は器用にこなしていましたが。劇場なので観客席は舞台かぶりつきから奥にかけてせりあがっており、どの席からも良く舞台が見える。能楽堂の見所のように、前の席に座った人の影響で舞台が見辛いと言うことが無いのが良い。会場に入る前、狭いエレベーターでは、お付きの若者達を引き連れた野村萬師と一緒だった。こんなことは滅多にないことだ。お顔の色艶と言い、張りといい、健康そのものという感じだった。自身の健康管理には十分に注意しておられるのだろう。
今回は「紅葉狩」に焦点を当てて観に行った。特に酒宴のシーンから終盤にかけて。だいたい理解できたけれど、一畳台の上に作物があってその中で着替えたり、残りの半畳で舞ったりするのは、面を着けてるだけに良く演れるものだとつくづく思ったりした。

銕仙会九月定期

2011-09-09 | 能・芸能

番組                宝生能楽堂

・能『井筒』 シテ:観世清和  ワキ:宝生閑  アイ:山本泰太郎

・狂言『茫々頭』 シテ:山本東次郎 アド:山本則重

・能『菊慈童』 シテ:観世淳夫 ワキ:御厨誠吾 ワキツレ:大日方寛

大曲「井筒」。「世阿弥が六十を過ぎて書いた夢幻能の自信作であり、最高傑作である。」 終盤に山。「業平の面影をしたい、形見の衣冠を身にまとい現れた有常の女の霊。業平の面影を慕い舞を舞う。筒井筒と謡ったのも今は遠い昔、幼き頃のように井戸の水鏡に我が身を映せば、それは業平の姿そのままで、懐かしさは限りない。やがて凋める花が色を失い、匂いだけが残るように女の亡霊は夜明けとともに消え果た」 序の舞。
ちょっと期待が大きかったのかもしれない。映像の世界だと面白そうと思った。

東次郎師が都の様子を仕方話で演ずる。これはおもしろかった。もう殆ど師の独り舞台のようなもの。



第55回野村狂言座

2011-09-02 | 能・芸能
番組

・『不見不聞』  太郎冠者:石田幸雄  主:岡聡史  菊市:野村萬斎

・『因幡堂』      夫:野村万作  妻:高野和憲

・『舟ふな』   太郎冠者:野村裕基  主:野村万作

・『馬口労』     博労:野村萬斎  閻魔大王:深田博治

台風12号が日本の横腹に直撃、衛星写真の映像は日本をすっぽりと覆っている。これはもしかしたら帰れなくなるかもしれないと思っていたけれど幸い雨には遭わずに帰宅できた。いつものとおり、水道橋の宝生能楽堂での狂言座だけれど、首都圏は広い。数時間掛けて観劇に訪れる客もいるのだ。自分も往復5時間余りかかる。夕食やら帰宅の交通手段をいつも考えてしまう。  さて万之介師亡き後の狂言座。「因幡堂」の夫を務めるはずでしたが、万作師が務めました。悪妻を離縁し、良き後添えを期待して因幡堂で「願」かけるけれど、一枚上手の悪妻の謀に引っかかりほうほうの態で逃げ出すという筋書だけれど、高野師の悪妻ぶりには笑ってしまうのだ。ネチネチ感がなくて開放的・ストレートな女と言うところか。対する「夫」は感情細やかな常識人という役どころか。万之介師だと、いつも連れ添いの尻に敷かれそれでいて柳に風みたいな雰囲気が最初から感ずるところだと思うけど、万作師は万作師でまた面白い「因幡堂」でした。「不見不聞」パンフレットに「みずきかず」と書いてありました。浅学には読めませんでしたが、要するにこの演目は身障者が役所なのだ。主が外出するにあたり、留守居を命ずる耳の遠い太郎冠者だけでは心配なので、助っ人に目の見えない座頭の菊市を連れてくる。「みえずきこえず」が正しいのではないのかと思ったけれど、演じてる側からすると「みずきかず」つまり自分のハンディに自信?を持って、開き直って生きてるのかもしれないと思うと、正しいのだと解釈することにした。だから留守を務めるあいだ、お互いが相手を傷つけあって嗤いあって、最後は座頭がブッ飛ばされてオタオタするという話しである。今のように健常者・身障者が共にいたわりあって生きてゆきましょうというほど甘くは無かった大昔の光景が思い浮かべて面白かった。「舟ふな」裕基君立派。だんだん可愛いというだけの役者ではなくなってきてる感じがする。新鮮な、そして溌剌としたものを時折感じる。万作師が相手なので一層そういう若さが引き立つのかもしれない。そのうち、かっての武を凌ぐ人気役者になるかもしれない。楽しみ。「馬口労」これも読めなかった。「博労」のことだ。大昔は馬の口を取った者をこう言っていたのかもしれない。それが皆博奕好きが多くて「博労」になったのかもしれない。三途の川を渡った博労は閻魔大王と遭遇。大王は博労を地獄に落とそうとするが、博労が手にした馬の「くつわ」に興味を持ち乗馬を教えろと博労に迫る。「くつわ」の使い方を知ろうと自分が馬になったのが失敗のもと。蹴りあげようが振り落とそうが博労の巧みな「くつわ」さばきでヨレヨレにされ、地獄どころか天国行きを約束させられてしまう・・というお間抜けな閻魔大王なのだ。こう書いてしまうとなんのことはないのだけれど、そう思わせるよう演ずるとなると難しいのだ。そこは萬斎・深田両人です。大暴れの馬と博労の呼吸はぴったりではなかったかと。蹴りあげる深田師、僅かに外す萬斎師。さすがです。 今回なぜか役者の声が重要な要素を持つのだと感じた。自然で良くとおる声。大きい小さい自在で生き生きとした余裕を持った声というのはそれだけで観客を納得させ得る。だみ声でも透き通ったような声でも、声が生きてると言うのはすばらしいことだと思った。