言葉のクロッキー

本とかテレビその他メディアから、
グッと感じた言葉・一文などを残してゆきたい。
その他勝手な思いを日記代わりに。

1月観能記

2012-01-31 | 能・芸能
今月は新春ということもあってか例年能・狂言の出し物が多い。ラジオ・テレビも…と言ってもNHKだけだが、多かった。テレビで印象に残ったのは「厳島観月能 融」。昨年10月に採録され、放映が延期されたものだ。いつだったか厳島に観光に行った時、能舞台も渡り廊下から観たが、鏡板の松も痛々しいほどに禿げ、舞台もささくれ立ってるような感じだった覚えがある。しかし録画された映像ではそんなみすぼらしさなど全く感じなくて、照明の加減で鏡板の松はふんわりと闇に浮かび、さざ波に反射したライトの光の帯は舞台に揺らめき、日頃見たことのない演出効果を出していたと思う。シテを務めた友枝昭世師は、2度目の「融」と言っていた。中天には満月がかかり、天候にも恵まれていたようで実際に観て見たいものだと思った。
18日に観世能楽堂で「日本能楽会」東京公演があった。金春・宝生・喜多・観世・金剛各流派、狂言からは大蔵流が参加した。能は喜多流の「松風」と観世流の「小鍛冶」。そのほかに舞囃子が二番、仕舞が九番、一調が二番、狂言が一番演じられた。「小鍛冶」はトリで演じられたが、シテは観世銕之丞師、ワキは宝生閑師が務めた。この日の「小鍛冶」は「黒頭別習」といい、観世流だけにある「黒頭」をさらに重くした演出で「重キ黒頭」ともいい、一子相伝ともいわれているものらしい。銕之丞師の大らかな演能でなにかとても華やかな「小鍛冶」だった。
29日に国立能楽堂で「夜討曽我」を観た。小書に「十番斬 大藤内」とある。十番斬というだけあって舞台には囃子方・地謡衆・後見に加え橋懸りには10人の立衆が出て大太刀周りをやるのだ。もう歌舞伎に近い。最後はシテ(観世喜正師)の五郎時致がツレの御所五郎丸達の武者に捕縛され橋懸りを神輿を担がれるようにして幕に入るのだ。ツレの兄である十郎祐成は梅若紀彰師。ところでこの能に先だって、早稲田大学の教授・大津雄一氏が「歴史物語としての『曽我物語』」と題して1時間弱解説をしてくれて、物語の背景が良く分かった。兄弟の父が殺されたのは1176年10月。工藤祐経は自分の領地を横領したに等しい伊東祐親を暗殺しようとしたが失敗し間違って兄弟の父親を殺害してしまう。まだ幼かった兄弟に仇討を刷り込んだのは母親。しかし日が経ち再婚した母は、仇討が成就すると今度はその領地が頼朝によって没収される可能性が高いことから仇討に否定的になるが兄弟の意志は変えられなかった。敵とする工藤祐経は頼朝の寵臣になっていたのだ。仇討が成ったのは1193年。父が殺された時もまた仇討が成った時も、共に巻狩りが催されたときであり、またその両時期に頼朝が居たというのは興味深かった。兄弟の父が殺された時の頼朝は伊豆の流人、しかし仇討が成った時は、征夷大将軍源頼朝となっていたのだ。

琵琶という楽器

2012-01-28 | 読書 本
佐宮圭・『さわり』を読んで。
琵琶の演奏をきちんと聴いたことは無い。琵琶の音はおどろおどろしくて陰気な感じがするという先入観がある。薩摩琵琶位しか知らなかったが、この本によれば「楽琵琶」「平家琵琶」「盲僧琵琶」「薩摩琵琶」「筑前琵琶」「錦琵琶」が紹介されている。通常4本弦らしいが、錦琵琶のみ5弦になっている。琵琶の特徴的な響きは「さわり」と呼ばれている。さわりは、弦が振動しながら楽器の一部に微かに触れることで生まれる。(略)三味線や琵琶など、さわりのある弦の音はビーンという独特の雑音を伴う。とある。澄んだ所謂きれいな耳に心地よい音では元々ないのだ。さてこの本では琵琶演奏家・鶴田錦史という人について物語っている。本名は鶴田菊枝で別に櫻玉・欷水とも名乗った。明治44年に生まれ、平成7年に亡くなった。生まれた所は北海道の江別乙(えべおつ)屯田兵たちによって開拓された村だ。生まれた当時はテレビもラジオもなく演芸は直に聴くしかなかった。日清・日露戦争を通して琵琶語りは庶民に大人気となった。彼女は兄にその才能を見いだされわずか7歳で舞台で拍手喝采を浴びていた。それからの人生がすごいのだ。昭和5~6年頃までは天才琵琶師として活躍した。22歳で結婚し、2人の子供を授かり、夫の浮気が原因で離婚。そのショックで男として生きる決心をし、子供も他人に譲ってしまい、男装の人生を歩む。昭和に入り琵琶人気は下火になり加えて日本全体が不況になった中で、琵琶を捨て数少ないナイトクラブ等を経営するまでになり、マヒナスターズ・坂本九・水原弘・勝新太郎や永田雅一・川島正二郎などとも親交を持つ。そして江東区の高額納税者にまでなる事業家にまでなった。琵琶演奏家として復帰したのは昭和33年。このとき46歳。15年以上の空白の時があった。その演奏は円熟してゆき、やがて洋楽の作曲家武満徹と交流を持つようになり、彼の作曲となる「ノヴェンバー・ステップス」の初演を小澤征爾指揮のニューヨークフィルと演ることになる。国内で数々の賞に輝いたが、74歳の時にフランス政府から芸術文化勲章コマンドールを授与されたり、キースジャレットとの共演も成功。平成7年に亡くなった。
この本を読むまで彼女の事は全く知らなかったが、すごい女性もいたものと思う。