言葉のクロッキー

本とかテレビその他メディアから、
グッと感じた言葉・一文などを残してゆきたい。
その他勝手な思いを日記代わりに。

道成寺

2016-11-28 | 能・芸能

のうのう能50回記念

平成28年11月26日     国立能楽堂    13時始

番組

● 仕舞

       ・   「駒之段」  観世喜之

       ・   「鐘之段」  観世銕之丞

       ・   「玉之段」  観世淳夫

              地謡: 坂真太郎  永島充  佐久間二郎 中森健之介

●  能  『 道 成 寺 』 赤頭

        白拍子・蛇体  : 観世喜正

        道成寺住職   : 森常好       従僧 : 館田善博  森常太郎

        能力  :  山本泰太郎 山本則孝       後見 : 観世喜之  遠藤喜久  遠藤和久

        鐘後見 :奥川恒治  鈴木啓吾  桑田貴志  坂真太郎  中森健之介

        太鼓:梶谷英樹  大鼓:亀井広忠 小鼓:観世新九郎 笛:藤田六郎兵衛

        地謡 : 観世銕之丞 小島英明 佐久間二郎 永島充 馬野正基 観世淳夫




道成寺という曲は所作やお囃子に緩急があったり色があったりして観ていて飽きない曲だ。
特別ともいえる仕掛けとして大きなお寺の鐘を舞台の真ん中に吊り下げる。シテの喜正師は大柄だけど、その体がすっぽりと収まる大きさだ。能は作り物を設置するところも全部見せる。だから始まるまで、囃子方、シテ方の鐘後見、地謡、狂言方の鐘後見という役割の方々がぞろぞろ舞台に集まってくる。そして観客はその大きな鐘を吊り下げるのを見守る。2本の、大人の身長の3倍くらい長い竹を使う。1本の竹の先は割れていてそこに鐘を下げる綱の先を挟み込む。もう1本の竹の棒の先には大きな鈎がついていて天井の金輪に引っ掛けた綱を鈎に引っ掛けて引き下ろす。それをシテ方鐘後見の方々が引っ張り鐘を天井から吊り下げるのだ。
出囃子というのがある。前シテの妖しげな風情の女(白拍子)が舞台に登場する時のお囃子だけど、独特な雰囲気を醸し出すお囃子をする。この時間が長い。揚幕はなかなか揚がらない。まだかなと思ったころ揚がって、シテがスッと幕の前に現れたなと思ったら、そこにジッと佇んでて動かない。周囲・寺の中をジッと観察してる風だ。そしてユックリ、音もせず舞台に入ってくる。寺男は女人禁制と言われたにもかかわらず、舞を奉納したいとする女の願いを聞き入れ、住職の許しも得ずに寺に入れる。寺に入った女は舞を舞うのだが、滑らかで優雅な舞とは違い、蛇が鎌首を振るような不規則な所作を、小鼓の気合と打音に重ね拍子を踏みながら形作ってゆく。不協和音に変調・・でも不思議に調和しているといったような舞だ。舞の終盤、突然に動きが速くなる。女は烏帽子を扇でバシッと叩き落し、スッと鐘の真下にきて鐘の縁を掴む。と同時に鐘が落ちてくる。飛び上がってそこに飛び込んでゆく女。膝を折りたたんで跳び上がったシテが、落ちてくる鐘に隠れたのは、見た目舞台上1メートルくらいあったように思う。絶妙のタイミング。鐘後見は鐘を落下させ、面を着け、きちんとした着物姿のシテが跳び上がる。鐘が舞台に落ちると同時に鐘の中にいるシテも同時に無事に舞台に着地しなければならない。また飛び込んだシテが鐘の中で鐘の上部に激突しないように行動しなければいけない。それらのタイミングが見事に合っていた。ドスーンという能舞台ではまれな大きな音がする。大騒ぎの舞台、住職の因縁めいた語り。この間に鐘の中のシテは新たな衣装替えを独力でやっている。女の執心が、再興された鐘に祟ったのだろうと確信した住職は一心に数珠を揉んで経文を唱え祈るとやがて鐘は持ち上がり、中から蛇体となった女の化身が現われる。数珠を揉んで祈る僧侶たちに絡む女の化身。橋掛かりから本舞台、シテ柱まで使っての祈りと執心との戦い。やがて経文の力に勝てず、揚幕の陰に退散するのだった。

ピコ太郎

2016-11-19 | 語録

・・・紅白出場への夢も語ったが、若者に対して夢を叶えるために大事にしていることを教えてほしいと問われ、



「まず“夢はありますか?”という質問から入ったほうがいい。

夢は強制的に持つものではないと思ってます。

夢が無かったら現実をきちっと熟していけばいいし、それも幸せだと思う。

ただ、“はっ”とやってみたいと思いつくものがあればやったほうがいい。

“思いついたものはすべて現実にできる”と本で読んだことが有ります。

夢と言うのはスポットライトを浴びて、凄い金を稼ぐイメージですが、

自分に合った憧れたものがすべて夢、スター。

努力ではなく近道を探るために必要な手段を択ぶということを続けて行けばいいと思います」

                                                           gooニュ-ス

観世九皐会11月定例会

2016-11-14 | 能・芸能
平成28年11月13日   矢来能楽堂  13時始

番組

● 能  「朝長」
           シテ(前シテ 里女青墓ノ長   後シテ  源朝長ノ霊)    観世喜正
           ツレ(侍女) 中所宜夫     トモ(供人)  遠藤和久
           ワキ(旅僧) 森常好      ワキツレ(旅僧)  館田善博  森常太郎
           間(青墓長ノ下人)  石田幸雄       後見  観世喜之  弘田裕一
           太鼓:大川典良  大鼓:柿原弘和  小鼓:飯田清一  笛:八反田智子
          地謡 奥川恒治 鈴木啓吾 遠藤喜久  永島充  佐久間二郎 桑田貴志 中森健之介  河井美紀

● 狂言  「文荷」

            シテ   野村萬斎

            アド   月崎晴夫          小アド  深田博治
                                               後見  高野和憲

● 仕舞

          「井 筒 」     観世喜之

          「鳥 追 舟」    永島忠侈

          「飛 雲」      中森貫太

                地謡  佐久間二郎  駒瀬直也  遠藤喜久  河井美紀

● 能 「大佛供養」
           シテ 坂真太郎
           ワキ 安田登
           前ツレ  小島英明   立衆 佐久間二郎 桑田貴志 中森健之介
            子方  坂瞳子   後見  鈴木啓吾  遠藤和久
           大鼓  柿原光博   小鼓  幸正昭     笛  寺井宏明
          地謡  駒瀬直也 五木田三郎  弘田裕一 中森貫太 中所宜夫 永島充 新井麻衣子 久保田宏ニ

● 附祝言



朝長は頼朝の兄、父義朝の次男。負け戦・平治の乱で負傷し、美濃の国青墓で自害し17歳の短い生涯を終える。
物語は朝長にゆかりのある僧が、亡くなった朝長の霊を弔うため青墓を訪れるところから始まる。そして懇ろに弔っているところに、七日七日に弔っている青墓の長者が来合わせ、「いかなる人にてましますぞ」と問う。このあたりシテもワキも美声なもので、後ろの方から早くもいびきの音がした。モガッと鼻をならしたりして気になる。そうこうするうちにシテ青墓の長の語が始まる。正面に向き直り、改まった口調で「申すにつけて痛わしや・・・・」と語り始める。訪ねてきた有様。夜半に自害した朝長と義朝との哀しい別れ。朝長は合戦で左膝を弓矢で射貫かれ、もうこれ以上逃れることはできないと諦め、他の人達の足手まといとなるよりはと思い自害したのだ。その様をほんとに辛い、悲しい思い出として切々と語り、聴きごたえがあった。いびきもいつしか止んでいた。青墓の長は僧に、ここにしばらく逗留し、朝長の霊を弔うよう願う。「誰かあるまかりい出て御僧に宮仕申し以え」でアイの狂言方が扮する下人が登場し、僧に問われるままに下人が目撃した朝長自害の顛末を再び語る。ここではあまり情感たっぷりという語りではなく、たんたんと、もうびっくりしたことだったという感じの語りだった。僧が殲法を読み供養していると、「あらありがたの殲法やな」と後シテ朝長の霊が登場する。凛々しい若侍姿、里の女長者を演じた同じ人とはとても思えないほどだ。年相応の女性から若い男性、面も替え、衣装も青系から白系に、また哀しみから悔しさを前面にした、朗々とした謡。静から動。・・・この落差が観ていて楽しい。やがてシテ朝長は武運拙く敗れた様を語り始め、自害したが、魂は極楽にあっても、魄はいまだ修羅道を彷徨い苦しんでいるのだという。合戦で膝を射貫かれ云々のところでは、扇をたたんで左手に持ち替え差すような勢いで左の膝に立てたり、舞台に座り「腹一文字にかき切って」で、ズバッと割腹した仕草を見せ、その演技はとても新鮮に感じた。「亡き跡弔いてたび給え」で終わるのだが、聴きどころ、見どころ多いとても面白い曲と思ったし、演者が前と後とその違いを明確にきっちりと表現できてこその演目なのだと思った。

ある告別

2016-11-02 | 読書 本

おそらく大切なことは、もっとも見事な充実をもって、その『時』を通りすぎることだ。

『若さ』から決定的に、しかも決意をもって、離れることだ。

熟した果実がそうであるように、新しい『時』にみたされるために、『若さ』からきっぱりと遠ざかることだ。

ただこのように若さをみたし、『若さ』から決定的にはなれることができた人だけが、はじめて『若さ』を永遠の形象として

・・・すべての人々がそこに来り、そこをすぎてゆく『若さ』のイデアとして・・・造型することができるにちがいない。

                                                辻 邦生 「スペインのかげり」