このような見出しの記事があり、ついクリックしてしましました。記事の内容は以下の通り。その記事の見出しに大きな顔写真が載っており、そのドクターは本日、当院へステントグラフトの手術指導に来ていただくことになっている、筑波記念病院の西先生、びっくりしました!以下、記事です。
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幼い頃に母が脳動静脈奇形で意識障害をきたし開頭手術を受けた。後に母は子宮癌も患ったが、幸いにも手術と抗がん剤治療により回復した。母が二度にわたり大病を克服できたことから、中学時代から手術で病気を治し社会に貢献したいとの考えで外科医を志した。まずは目標に向けた大きな一歩として、東京医科大学医学部医学科へ進学。後期研修は多くの症例を経験できる相澤病院(長野県松本市)で行い、最初の1年で200例ほど手術執刀の指導を受けた。
当時は消化器外科メインの研修だったが、ローテーションでの心臓血管外科初日、助手として入った腹部大動脈瘤手術で大きな衝撃を受けた。心臓血管外科の緊急手術では目の前の患者の生死を左右する場面に何度も出くわした。搬送時には瀕死状態にあった患者が手術後には劇的に回復していくーー。そんな姿を目の当たりにし、これまで以上のやりがいを感じた。当時外傷外科へ進むことも考えていたが、「出血を制する者が患者を救うことができるのではないか」と考え、心臓血管外科の道へ進むことを決意した。
心臓血管外科は朝から晩まで手術が続くことも少なくないが、不思議と苦ではなかった。むしろローテーション期間を3カ月追加してもらうほどに魅了された。
後期研修を終えたタイミング(医師6年目)で自治医科大学附属さいたま医療センター心臓血管外科へ転職。念願の若手が活躍するハイボリュームセンターに入局を果たした。心臓血管外科診療には慣れないまま、翌年は医局派遣で湘南鎌倉総合病院の心臓外科へ。まだまだステントグラフの技術を習得できる環境も少ない中で、同院は積極的に取り組んでいた。せっかくの機会を活用し、患者への侵襲が少ないステントグラフトの技術を習得しようと研鑽に励んだ。
「それまでは正直、心臓血管外科医としてはあまりパッとせず、自分よりも優秀な同期や後輩に囲まれて焦っていた。この道で本当によいのか、自分の選択が正しかったのか悩んだ時期もあった。色々苦難があったが何とか乗り越えステントグラフトの資格を取得できたことや大動脈弁置換や弓部置換、急性大動脈解離の手術など経験し、ようやく少し自分でもやっていけそうだと思えるようになった」
2014年に自治医大附属さいたま医療センターへ戻ってからは、ステントグラフトの資格を生かし、ステントグラフト治療全てに参加し指導を受けた。TAVIも始まる時期であったこともありハートチーム立ち上げにも携わり、1例目からすべてのTAVI診療に参加した。いつしか年間の手術執刀数は医局内でトップ3に。ステントグラフト指導医を取得するだけの経験を積み、心臓血管外科専門医の取得も目前に迫っていた。
しかし、仕事中心で家庭をかえりみない日々が続いていた。物理的に家で家族と過ごす時間は極めて少なかった。年2~3回は体調を崩し、やがては帯状疱疹にも悩まされた。かわいい盛りの息子と遊んだ記憶もほとんどない。ワンオペで育児を担っていた妻には「結婚する相手を間違えたかもしれない」と言われる始末。自らの体調や家庭に危機感を抱き真剣に自分と家族と向き合うことに、「こんな働き方をしていたら、いつか医療ミスを犯すかもしれない、家庭は崩壊する、外科医であることだけが人生ではない、家族あっての自分、仕事」とまで考えるようになった。
医局を離れ、症例数の多くない病院に移れば、今以上のスキルアップは望めないかもしれないといった考えも頭をよぎった。しかし、自分が最期の時を過ごすとき、誰と一緒にいたいのか――。答えは明白だ。「ならば医局を辞めるしかない」。家族との時間や自分の身体を大切にしながら、手術に取り組むことができる環境を探した。
第二子の出産も控えており妻の実家がつくば圏内だったことから、筑波記念病院の心臓血管外科へ転勤。医局の縛りがなく、ステントグラフト指導医が不在であったことも好機と捉えた。転職後は家族と過ごす時間や趣味に当てる時間も増加。また、論文を読み、研究会や学会にも積極に参加し、見聞きしたことを実践した。ステントグラフトや血管外科緊急手術を次から次へとさばき、良い結果を出すことでチームの信頼を得ることができたという。「医局を辞めても、なお知識や技術が向上し続けていると実感している」。2017年には東京医科大学の社会人大学院へ入学、臨床と両立して2021年に博士号を取得した。
103歳の腹部大動脈瘤破裂患者のステントグラフト緊急手術を行い、一命を取り留めた際にはその成果がメディアで大きく報じられた。患者のADLや予後、退院後の生活を考えながら日々治療にあたる。埼玉も医師不足が叫ばれているが、茨城も同様に医師不足地域だ。特に心臓血管外科医師が不足する中でやり甲斐を感じる瞬間は少なくない。既に複数施設で受け入れを断られた患者の命を救うことができたケースも多々ある。
働き方改革などが叫ばれる今も、外科はハードな診療科として知られる。先輩や同期、後輩で知らず知らずのうちに外科を離れた医師も少なくない。「燃え尽きるまで働いてはいけない」と自戒を込めながら、心臓血管外科診療科長とつくば大動脈血管内治療センター長として後進の指導にも精を出す。