浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

五十路過ぎ振り返り見ば
我が人生罪と恥との
積み重ねなり

「心行の解説」より。

2014-04-09 03:51:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はお釈迦様が肉体行をされた前正覚山です。
    その手前に見えるのが尼連禅河(ネランジャ川の支流)です。


          ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

行きたい行きたいと思うのです。
ところが、そこへどうしても行けない。
稲束を渡す役目をしなかったら怒られますから、
その場から逃れることができないのです。
これと同じようにどうすることもできないことが十代であれば十代においてあり、
或いは二十代であれば二十代で、
同じように柵の中で涙を流しながら精いっぱい生きている己の姿をこの目に見せられました。
その時、あまりにも哀れな自分の姿を、短い間に全部見せていただいたのです。
私はこんな可哀そうな環境の中で柵にくくられた中で必死になって生きている己の姿を見て、
思わず「可哀そうだったなあ」と、自分に対してもう涙がとめどもなく流れてきて、
こういう厳しい中でよく生きてきたなあという思いが溢れてきました。
その時、私は思ったのです。
「反省みたいなもの、できてもできなくてもいい、心に法灯みたいなもの、
頂いても頂かなくてもいい、そんなものは関係ない。
とにかく私自身を許してあげよう。
これほど精いっぱい生きた己自身に対して許しを与えよう。

己に優しく、人に厳しくという生き方ならば法に背くけどそうではなかったのだ。
もう法も何もない、とにかく私は私自身を許すことだ」と思って、自分を許そうと決めた時、
心がふわっと軽くなったのです。
ほんとうに心がふわっと広くなり、光輝いた己をその時自覚しました。
自分を許した時、どれほど自分が楽であるかということを悟らせていただいたのです。
自らを許させていただいた時、この肉体の五官の感覚が完全に消えてしまいました。
意識ははっきりしていますが、頭・手・足・胴はどこにもなく何も感じないのです。
こういうことは生まれて初めての体験ですから、「あら、私の体が無くなってしまった、
私はどこかへ行ってしまった」と思ったのです。
身が軽いというようなものとは全く違います。
完全に肉体の感覚が消えています。
私はどこかへ行ってしまったらえらいことだと思いましたから、
顔・頭・胸・手足をしっかり掴んで確認しました。
するとやっぱり感じがあるなと思い、自分の全身を探したぐらいです。
そして「ああ、やっぱりついていた」と思ったのです。


           ~ 感謝・合掌 ~






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