浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

五十路過ぎ振り返り見ば
我が人生罪と恥との
積み重ねなり

「心行の解説」より。

2014-04-15 00:43:02 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はお釈迦様がカピラ・バーストのご自分のお城から修行をされるため
    家出をされた東門跡地です。


       ~ 恩師の「心行の解説」より ~


   「この時に神仏の心と己の心が調和され心に安らぎを生ぜん
       心は光明の世界に入り三昧の境涯に到達せん」


先日九州の方から電話で「三昧」の意味について質問がありました。
「三昧」とは煩悩の炎が消えてしまった涅槃寂静という心境をいっております。
「三昧」とは元来サンスクリット語のサマーディの音訳で、
仏教では「心を一つの対象に集中して乱れない精神状態」のことをいっております。
何も念じず、何も思わず、自我を滅した心境、こういう心で私たちは生活することができます。
昨夜、京都からある奥さんが電話をかけてこられました。
その方のご主人は、癒しの能力を持っておられて、一日に五十人も六十人も患者さんが
見えるそうです。

とても不思議なことをされるので生き神様のように有難がられているのですが、
ご本人は相手の苦しみを受けてしまってそこから逃れるために夜になると酒を飲みに出掛ける始末で、
外に女性の方もいて一時の安らぎを求めるそうです。
そのために生活がガタガタになっているのです。
いくら不思議な癒しの力を頂いていても、自分でコントロールできなかったら何もなりません。
自分の念で癒されるそうですが、相手の人が救われてほしいと、念を使い、
そういう力が出る人であったとしても、そのために自分が不幸になったのでは何にもならないです。
ひとも救われ、自分も救われるのが正しい治療のはずです。

私の場合は、お陰様でいくら多くの方を癒させていただいても、
相手の苦しみを受けることはないのですが、なぜ受けないかというと、
無我の心で、自分という我を捨て切った心で癒させてもらうからです。
この心さえ持っておれば、相手から病や苦しみを受けることはないのです。
これは治療に携わる者だけでなく、日々の生活においても同じことで、
「自分がしてあげた」という思いを持たないことです。
これは難しい考え方ですけど、「神様が私を使って他のために働いて下さるのである、
私がしたのではない」と思わせていただいたら、その時は相手から苦しみを受けることはありません。
これは原因結果の法則から何ものも逃れることはできないということです。
今、苦しみがあればその苦しみは何か知らないけど、過去に原因があったから、
今結果として苦しんでいるのです。


              ~ 感謝・合掌 ~




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