※ お写真はインド・クシナガラに在る涅槃堂に安置されているお釈迦様の像です。
恩師の祈りによってお釈迦様に掛けてあるカバーに金粉・金箔が沢山降って降きました。
~ 恩師の「心行の解説」より ~
先の続き・・・
二回目、三回目と来られた時、
「主人も子供たちもぜひ先生にお目にかからせてほしいと言っています」とおっしゃるから
「あなたが想像されたような立派な格好をした人間ではないと、
ちゃんと伝えて下さいよ」とお願いしました。
「それは間違いないように言うておきます」。
次の時、「どんなふうに言うてくれましたか」と聞きますと、
「お百姓のおじちゃんが、今肥たごをおろして入ってきたような人だといっております」
「それなら間違いないでしょう」と言ったことがありますが、
キリスト教でも、イエス様がご苦労なさって、命がけで人の命を救われた姿と、
今の教会の奥におられる牧師さんとか神父さんとかは、とてもかけ離れた方が多いです。
イエス様のようなお方は一人もおられませんと言えば怒られますが、
そういう方は砂の中からダイヤモンドを探し出すほどしかおられません。
お坊さんも同じです。
お釈迦様のように生きておられる方はごく稀で、殆どありません。
これは、長い時間のうちに、人間の知識と思いが、時の権力者の欲望も入りまじって、
正しい教えを間違ったものに変えてしまったのです。
ですから仏法を学ぶのであれば、その原点を学ぶことであり、
キリスト教を学ぶのであれば、イエス様がどのようにして生きられたのか、
どのようなことをおっしゃったのか、
それを求めて聖書をほんとうの意味を学ぶことです。
イエス様が教えられたことは、表面の言葉としての意味と、
文字の底に沈められている深い意味とがあります。
文底の秘文といって、文の底に沈められている意味を学ばなくてはいけません。
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~ 感謝・合掌 ~