浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「心行の解説」より。

2014-04-15 00:43:02 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はお釈迦様がカピラ・バーストのご自分のお城から修行をされるため
    家出をされた東門跡地です。


       ~ 恩師の「心行の解説」より ~


   「この時に神仏の心と己の心が調和され心に安らぎを生ぜん
       心は光明の世界に入り三昧の境涯に到達せん」


先日九州の方から電話で「三昧」の意味について質問がありました。
「三昧」とは煩悩の炎が消えてしまった涅槃寂静という心境をいっております。
「三昧」とは元来サンスクリット語のサマーディの音訳で、
仏教では「心を一つの対象に集中して乱れない精神状態」のことをいっております。
何も念じず、何も思わず、自我を滅した心境、こういう心で私たちは生活することができます。
昨夜、京都からある奥さんが電話をかけてこられました。
その方のご主人は、癒しの能力を持っておられて、一日に五十人も六十人も患者さんが
見えるそうです。

とても不思議なことをされるので生き神様のように有難がられているのですが、
ご本人は相手の苦しみを受けてしまってそこから逃れるために夜になると酒を飲みに出掛ける始末で、
外に女性の方もいて一時の安らぎを求めるそうです。
そのために生活がガタガタになっているのです。
いくら不思議な癒しの力を頂いていても、自分でコントロールできなかったら何もなりません。
自分の念で癒されるそうですが、相手の人が救われてほしいと、念を使い、
そういう力が出る人であったとしても、そのために自分が不幸になったのでは何にもならないです。
ひとも救われ、自分も救われるのが正しい治療のはずです。

私の場合は、お陰様でいくら多くの方を癒させていただいても、
相手の苦しみを受けることはないのですが、なぜ受けないかというと、
無我の心で、自分という我を捨て切った心で癒させてもらうからです。
この心さえ持っておれば、相手から病や苦しみを受けることはないのです。
これは治療に携わる者だけでなく、日々の生活においても同じことで、
「自分がしてあげた」という思いを持たないことです。
これは難しい考え方ですけど、「神様が私を使って他のために働いて下さるのである、
私がしたのではない」と思わせていただいたら、その時は相手から苦しみを受けることはありません。
これは原因結果の法則から何ものも逃れることはできないということです。
今、苦しみがあればその苦しみは何か知らないけど、過去に原因があったから、
今結果として苦しんでいるのです。


              ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2014-04-14 00:27:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ 恩師がインドの大統領の招待を受け大統領官邸を訪問された時のものですが、
    主客転倒で恩師が大統領を案内しているようなお写真です。


      ~ 恩師の「心行の解説」より ~


    「かくのごとき正法の生活のなかにこそ神仏の光明を得」


心を苦しめないから、神仏の光を頂くことができるのです。
自分の心を苦しめた状態の時に神仏の光が入ってくることは絶対にありません。
常に心を穏やかに安らかに保つことによって、神仏の光明を得ることができます。


     「迷いの岸より悟りの彼岸に到達するものなり」


「迷い」とは、この世に生きていろいろな錯覚を起こすことです。
今ある命はいつまでもあるように思いますが、この錯覚が迷いです。
「いつまでもあると思うな親と金」といいますが、これだけではなく、
自分の命もいつまでもありません。
また、この世には苦しみがあって当然であるのに、
この世は楽な世界と錯覚しています。
お釈迦様は諭されたように、「常に苦しみがあって当たり前の世に中」と、
悟ることができたら、少々の苦しみがあっても当然だと思うことができ、
心は楽になるはずです。
さらに、不浄なるものを浄なるものと錯覚を起こし転倒してしまうのです。
このように錯覚を起こしていることが迷いです。
仏教ではこの苦しみ迷う世界を此岸(しがん)といい、
悟った向こうの岸を彼岸(ひがん)といいます。
彼岸に到達するには、正しい生活の実践をしなければなりません。


          ~ 感謝・合掌 ~



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「心行の解説」より。

2014-04-13 02:46:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真は霊鷲山山頂への登山道で途中でバテてしまった我らの恩師。
   恩師は何度もこの霊鷲山を登山しておられますが、この時は初回の登山でした。


        ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

お釈迦様が説かれた幸せへの道、「八正道」を行じることが、
人間として最も魂が完成される道筋です。
自分を大事にして、自分の心を苦しめないようにして下さい。
大変なお人好しのおじいちゃんがいて、
この人は他人のために一生懸命尽くし、
「ちょっとお金を貸してほしい」と言われたら、
自分に持ち合わせがない時は人から借りてでも貸すのです。
人が好いから請求することを知らず、貸しっ放しにしています。
ところが、返してくれないとおばあちゃんが集金に行くのです。
「借りる時の恵比須顔、返す時の閻魔顔」とは凡夫誰しも同じことで、
借りる時はニコニコ顔で頼みに来ますが、
お金を返す時は閻魔様のように恐い顔です。
ましてや返してくれない時はもっと恐い顔ですから、
おばあちゃんは腹を立てます。

おじいちゃんはいつもご機嫌ですが、
おばあちゃんは内職をして借りたお金を返さなくてはいけません。
この世的に見ると、おじいちゃんは罪が深く、
おばあちゃんは一生懸命苦労を重ねて可哀そうです。
人の好いおじいちゃんと、
借金を返すために苦労して腹を立てているおばあちゃんとは
それぞれ死後どんな所へ行ったかといいますと、
おじいちゃんのほうは、綺麗な方が紫の
雲の上に乗ってお迎えにきてくれて、
「有難いなあ、結構だなあ」と言って死んでいかれたのですが、
おばあちゃんは「わあ、恐ろしい奴がいっぱい来る」と言って
虚空をかきむしって死んだのです。
この実際にあった話を通して、
なぜ苦労させられたおばあちゃんが地獄へ行き、
苦労させたおじいちゃんが極楽へ行ったのかと、
この世的な矛盾があります。

その理由はおじいちゃんは自分の心を苦しめることはなく
おばあちゃんは自分の心を苦しめたから、
こういう結果になってしまったのです。
自分の心を苦しめるということはこの世だけでなく、
あの世まで続くということですから、
心を苦しめないためにいろいろなことを知り、
苦しめない方法を学ぶことです。
思い方を変えること、
つまり大難を小難に切り替えていく思い方を身につけることです。
現在、どんなに苦しくても、
もっともっと苦しい方もたくさんおられるというように
思い方を変えた時、自分の心が苦しまないはずです。
心を苦しめない生活を日々に行いますと、常に心が軽く、
光明を頂くことができます。


          ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2014-04-12 01:28:02 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はお釈迦様が大悟されて後、初めて法を説かれたとされているサルナートにある
   初転法輪の地ダメーク・ストーパーと同じ場所にある香堂(ガンダクティ)です。


            ~ 恩師の「心行の解説」より ~


この世の中は、苦しみ、悲しみ、辛いことを体験するように作られております。
しかしよく考えてみますと、全部自分がその苦しみの原因を作っているのです。
「周りの人はみな嫌いな人です。
私に意地悪をされます。対人関係がうまくいきません」と言われる方がよくありますが、
ご自身が心を変えていかれた時、周りの方がよくなってくれます。
自分が良くなった時、周りの方も変わってくれるのです。
悪いのは相手ではなくて自分自身が気付かないうちに悲しみの原因を作っている場合が殆どです。
そのことに目覚めて過ちを正した時、周りがみないい方に変わっていただけます。
そのことを知らないから、「相手が悪い、良いのは自分である」と錯覚を起こしているのです。
私も高橋信次先生のご縁を頂くまでは、迷える人生を送ってきました。

先生のお陰で、
「ああそうであった、どうしてこんなに苦しい辛い思いをしなくてはいけないのかと思ったけど、
それは全部自分に原因があった」と、はっきり掴ませていただきました。
そして自分が変わった時に、周りも変わってくれることを、身をもって掴ませてもらいました。
私の所へ来て下さる方は、皆さんすばらしい方ばかりです。
入れ墨を彫り込んで、町では恐ろしくて顫え上がるような方でも、私の所へ来られたら、
皆幼な子のようになっていただけます。
自分自身が変わった時、どんな方でもすばらしい方に変わっていただけるのです。
どんな方でもみなすばらしい方に変わっていただけるのです。
今迄、背中らかお尻まで入れ墨を入れた方がよく来られました。
治療すると、「痛い、痛い」と、そんな方に限って悲鳴をあげますから、
「身体中に傷をつけることを思えば、
私は身体に傷をつけないのだから辛抱しなさい」と言って、痛い目に遭わせます。

もう十年以上前のことですが、
神戸のある組でもめ事が起きてもその人が顔を出したら治める力を持っていたという、
八十何歳かのおじいちゃんが見えたのです。
この人は背中全部に入れ墨を入れていましたね。
木崎という有名な外科医の執刀のもとに麻酔なしでお腹の手術をしたそうで、
「私はあなたに命を委せたので、好きにしてください」と言ったそうです。
ところが、その時よりも私が触った時のほうがもっと痛いと言われるのです。
「えげつなく痛いですなあ」と、悲鳴をあげることがあって、このご縁で、
子分の方達が次々と私の所に見えたのです。
親分の命令だから来なくては仕方がないし、私も普通ならひどい目に遭わせるのは恐いけど、
親分の命令なら恐いこともないので、かなりひどい目に遭わせて治療しましたが、
皆さんは人間的にはとてもいい人ばかりでした。
こんなことも経験してきましたが、入れ墨というのは、親から頂いた満足な肉体を
わざわざ針で傷をつけ、この世的な凡夫の自己顕示欲を示そうとする一つの現れだと思います。
人に対していい恰好をしたいという心の働きによって、いろいろな人生を送っていかれますが、
ほんとうの神を知らず、道を知らないから、そのようになっていくのですね。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「心行の解説」より。

2014-04-11 05:07:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はお釈迦様が大悟されて場所を七箇所変えられてその法の悦びを
   楽しまれたと言われている場所の一つです。
   お釈迦様がお歩きになられた足跡に蓮の花が咲いたとの伝記により
   それを形造られた石が並んでいます。


          ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

私たちは成長の過程において、
自分のお母さんに数え切れない迷惑をかけているというのは事実ですね。
しかも母はすべてを許して下さっています。
私たちすべてがそうです。
親に心配をかけていない者は皆無のはずです。
また、この世に生まれて一度も過ちを犯していないという人も皆無のはずです。
自然に背いた思いや言葉もそうです。
思いはすでに心の中で行動が始まっているということです。
ですから、それが言葉となって発せられ、また、肉体の動きとなります。
思うだけならば人には迷惑はかけないと思うのですが、そうではありません。
私が教えを習いたての頃に、こういう話を同業の人にしたのです。
すると、ある人が、「長尾さん、殺生なことを言うな、
思うことぐらい自由にさせておいてほしい。
私は友達の嫁さんが好きで好きで、晩になったらその人のことを思うのが楽しみだ。
思うぐらいなら構わないだろう」と言うのです。
それで、私は、「いや、思ってはいけないそうです。
心の中でもしその人のことが好きだと思ったとしたら、
それはすでに姦淫を犯しているそうです」と言うと、
「何もしていないのだから構わないだろう、なぜいけないのか教えてくれ」と言われますから、

「まず、奥さんを裏切ります。心の中で裏切っています。あなたを信じ、
あなたを立派なお父さんと思っている子供さんたちをすでに裏切っているのです。
また、友達に対してあなたは盗みをはたらきました。
そのお嫁さんを思うことは、もう盗みをはたらいたことです。
最も危険なことは、
もし何かの縁によってあなたとその奥さんが二人きりになるような機会が訪れる時、
あなたが何とも思っていない場合は間違いは起きませんが、しかし好きだと思っていて二人きりになったら、
これはただではすみません。
だから、その思いは正しくないのです。
思いを正さなくてはならないそうです」と、教えてもらった通りに話しましたところ、
「なるほどそうだな、私もあまり思わんようにしよう」と、言っていただいたことがありました。
思いは縁に触れたら、それが行動となって現れる場合が起きるから、正さねばならないのです。
もし現実にそうなった時、今度は苦しみが生まれますから、思いはできるでけ正すことです。
それは必ず形となって現れるからです。

思うことで、他に迷惑をかける場合はたくさんあります。
憎い人があって、「ほんとうに憎いなあ、あんな奴は死んでしまえ」と思った時、
すでに心の中で殺人を犯したことになります。
たとえ相手に聞こえなかったとしても、これは言葉として口に出さなくても、
思いとして立派な殺人を犯したことです。
言葉についても同様で、常に正しく語らなければいけません。
口を開けば、必ず相手に喜びと安らぎと希望を与える言葉を言うように心掛け、
それ以外の言葉はいっさい不要です。
その時、言葉の災いから自分を守ることができます。
「正しく定にいるべし」が、とんだ寄り道になりましたが、
これも定に入る一つの反省の例でございます。
皆様も参考にしていただけたら結構かと思います。
「心行」も大詰めとなりました。
長い間、ほんとうによく聞いていただきました。


                ~ 感謝・合掌 ~



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「心行の解説」より。

2014-04-10 01:19:28 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はインドのナーランダーに在るお釈迦様のお弟子で智慧第一と言われた
   シャリープトラーのストパーです。


        ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

私たちの心の中には想念帯という心の曇りの場所があるそうです。
それは私たちの肉体の五官の感覚によってできているのですね。
想念帯が破れた時に、この五官の感覚が全くなくなってしまいます。
そのことがあとになって分かって、
その時の状態はこういうふうになったのだなと知ることができました。
その時の心境は、もう見るもの見るもの全部が愛しくていとおしくてたまりませんでした。
そこらに生えている草、林の中の樹々を見ると、ああ良かったなあと草に頬ずりをし、
樹に抱きついて喜んだものでした。
何ともいえない喜びに満たされるものです。
ちょうどその頃、私が反省のため山に入らせていただく直前に、東京から偉大な方と
言われていた人が来られたのです。
その方の講演を聞かせてもらいました。
「坐って反省することは要りません。反省する時期は過ぎました」と、その先生が
話されるの聞いて、「これはえらいことになったなあ、
私は何のために山に入っていくのかなあ、何のために坐りにいくのかなあ」と、
すごく疑問を持ったのです。
しかし、行く日も決まっているし、荷物もまとめていましたから、
そのまま反省をしに行って坐らせていただきました。

その結果、私はすばらしい喜びを頂きました。
正に心に法灯を頂いたと思います。
この喜びは口や言葉ではとても言い尽くすことのできない喜びです。
法の喜びですね。この時私は、「あの東京の先生は間違ったことを言われた、
坐ってする反省は要らないとおっしゃった、
しかし私は坐ってこの喜びを得た、坐ることなしにこの喜びは絶対に頂けないはずである。
だから坐ってする反省は要らないというのは全く間違っている」と、
自分の体験をもって、見抜きました。
自分が反省の実践をして掴んだこの喜びは、誰が何と言おうと、
どんな偉い人がどう言おうとそれとは関係がない私の心です。
そして間違いのない事実です。
だから頭や口でそういうことをおっしゃっても、
それは間違いであるということはっきりと言いさることができます。
そういう体験をさせてもらって、反省とは有難いものだなあ、
こんなにも自分が楽になれるものだと分からせてもらいました。


          ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2014-04-09 03:51:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はお釈迦様が肉体行をされた前正覚山です。
    その手前に見えるのが尼連禅河(ネランジャ川の支流)です。


          ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

行きたい行きたいと思うのです。
ところが、そこへどうしても行けない。
稲束を渡す役目をしなかったら怒られますから、
その場から逃れることができないのです。
これと同じようにどうすることもできないことが十代であれば十代においてあり、
或いは二十代であれば二十代で、
同じように柵の中で涙を流しながら精いっぱい生きている己の姿をこの目に見せられました。
その時、あまりにも哀れな自分の姿を、短い間に全部見せていただいたのです。
私はこんな可哀そうな環境の中で柵にくくられた中で必死になって生きている己の姿を見て、
思わず「可哀そうだったなあ」と、自分に対してもう涙がとめどもなく流れてきて、
こういう厳しい中でよく生きてきたなあという思いが溢れてきました。
その時、私は思ったのです。
「反省みたいなもの、できてもできなくてもいい、心に法灯みたいなもの、
頂いても頂かなくてもいい、そんなものは関係ない。
とにかく私自身を許してあげよう。
これほど精いっぱい生きた己自身に対して許しを与えよう。

己に優しく、人に厳しくという生き方ならば法に背くけどそうではなかったのだ。
もう法も何もない、とにかく私は私自身を許すことだ」と思って、自分を許そうと決めた時、
心がふわっと軽くなったのです。
ほんとうに心がふわっと広くなり、光輝いた己をその時自覚しました。
自分を許した時、どれほど自分が楽であるかということを悟らせていただいたのです。
自らを許させていただいた時、この肉体の五官の感覚が完全に消えてしまいました。
意識ははっきりしていますが、頭・手・足・胴はどこにもなく何も感じないのです。
こういうことは生まれて初めての体験ですから、「あら、私の体が無くなってしまった、
私はどこかへ行ってしまった」と思ったのです。
身が軽いというようなものとは全く違います。
完全に肉体の感覚が消えています。
私はどこかへ行ってしまったらえらいことだと思いましたから、
顔・頭・胸・手足をしっかり掴んで確認しました。
するとやっぱり感じがあるなと思い、自分の全身を探したぐらいです。
そして「ああ、やっぱりついていた」と思ったのです。


           ~ 感謝・合掌 ~






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「心行の解説」より。

2014-04-08 03:31:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はお釈迦様の生誕地であるルンビニにある小学校へ寄贈された釈尊像と恩師です。
     この像の台座に「浄心庵」とローマ字で記載されてあります。


        ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

この話もよくしますが、小学校一年生の秋のことです。
秋の取り入れで稲刈りをして干し、
乾燥すると田圃の真ん中にゴザを敷いて脱穀するのです。
干してある稲束を脱穀する場所まで運ぶと、
父が足踏み機でえギコギコ脱穀しては済んだ藁を後ろに放っていくのですが、
その時、積んである束を父に渡すのが私に役目でした。
この稲束を一つずつ父が最も受け取り良いように渡しますと、
父はザアーッと脱穀してパッと後ろに放ります。
すると次の束を渡さなくてはいけないのですが、
父の手許の受け取りやすいところへ持っていかないと、
「何をしてるのか」と怒られます。

父のしやすいように次々と渡していくのです。
こうすれば一つ一つ取る時間が節約できるわけで、父の体も少しは楽になります。
その田圃のすぐ近くはお堤防でその上は平地になっており、
友達がきてワイワイ遊んでいるのです。
私はちょっとおませでして、もう好きな女の子がいたのですね。
「あの子、可愛らしいなあ」と、まあ、私の初恋でございます。
その子いっしょに遊んでいるので、私は行きたくてたまりません。
「男女の愛は苦しみである」と、よくいったものです。
神の愛、アガペの愛に苦しみはないのです。
けれども男女の愛には必ず苦しみがつきます。

その女の子の側へ行きたい行きたいと思っているのに行けない、
友達は楽しそうに遊んでいるのに私は稲束を渡さなくてはいけない、
その時の辛かったこと。
そのうちだんだん日が暮れてきて、友達は皆帰ってしまいます。
その子も帰ってしまいました。
私は涙をポロポロこぼしながら稲束を渡していたのです。
父が、「お前、何泣いているのか」と、私の気持ちも知らないで言うのです。
もし私の心を知ったら、お父さんは腰を抜かしたかも知れません。
小学校一年生で好きな子がいるなんて、まあ、
私は泣きながら叱られながら稲束を渡したものでした。


            ~ 感謝・合掌 ~






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「心行の解説」より。

2014-04-07 01:10:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はお釈迦様が好んで法をお説きになられた霊鷲山(りょうじゅせん)にて
      瞑想・禅定されている我らの恩師「長尾弘」先生です。


          ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

私はいくらやってもできないから、もう諦めたのです。
諦めてごろんと転がって、
「私のような者が心に法灯を頂くというような大それたことはありえないことだ、
それは心の綺麗な尊い方だけができることである」と完全に心から捨てました。
捨てるまでにはもういやという程、己を見つめたのですが、どうしてもできないのです。
そして天を見ていると、木陰の葉こぼれの光彩がずっと入ってきて、
その何ともいえない光を見ていると、「あんなふうに光を頂けたらいいのになあ」と、
また欲が湧いてきて、もう一回起きあがったのです。

しかし自分ではどうしようもない、もしも守護霊様が私についていて下さるのならと思って、
「守護霊様、私はどうしてもできません。
どうぞ正しい反省の仕方というものを私に教えて下さい」と言って、一生懸命お祈りしたのです。
その時、
ほんとうに不思議なことに右前方の手の届く辺りに、
私の幼い頃から四十半ばまでの間の自分の姿が写し出されて、みんな見せていただけたのです。
それこそ立体的で、その当時のありのままの姿・行動・出来事などが見えました。

どのくらいの時間が過ぎたか分かりませんが、あまり長い時間はかからなかったと思います。
まさに意識の世界は時間、空間、距離というものとはいっさい関係がないということを
はっきりと分からせてもらったのです。
その自分の姿はまた何ともいえない哀れなものでした。
自分に与えられた環境の中で、
「ああしたい」「こうしたい」と思いながらもどうすることもできない柵にがんじがらめになりながら、
必死に生きている姿を、まざまざと見せられました。


             ~ 感謝・合掌 ~






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「心行の解説」より。

2014-04-06 03:41:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はお釈迦様の御生誕地ルンビニの摩耶堂に安置されているお生まれになられて
    七歩歩かれ天上天下唯我独尊のポーズをとられたお釈迦様の立像です。


         ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

「あなたは幼い頃から、これをしてはいけない、
これはしてよいということをよく知っていました。
それなのに親に嘘をつき、他人の山へ竹を盗みに入って、
自分の大事な肉体に傷をつけて、
あなたはほんとうにいけない子です」というように、
自分を責めることしか思えないのですが、
「今後はがんばりなさい」と励ますのです。
私たちの思いにおいて、
「人様は寛大に、己には厳しく」という生き方が基本にあることです。
これが法の姿だと学んできました。
私は幼い頃から、そのように生きてきました。
その思いが基本にあって、自分を許すことは、
自分に甘くなることだと思い込んでいましたから、
自分には厳しくして、
人を許しもいいけれど自分を許してはいけないと思っていたのです。

だから何回見方を変えてみても、
出てくる答えは自分自身を責める思いしか出てきません。
自分を許すことはできないものと思っておりました。
皆様も、
過去にあった間違いに対して完全に心から許している方はごく稀だと思います。
自分を許せないのが、自分の良心です。
自分は悪いことをしたと、その良心が自分を責めるのです。
反省させてもらって、
自分というものを見てきた時、許せないものだから、
「草一本、木の枝一つにしても人様のものを取ってはならないことを知っていながら、
どうしてそのようなことをしたのか、これはいけないことだ」といって、
自分を責めたてるので、どう見ても反省ができないものですね。

何百回繰り返しても同じ答えしか出ません。
そこで、私のような者が法灯を頂くのは無理だと諦めました。
集中的な反省は、自分の心の法の灯を頂くためにするそうです。
例えば、
夜の真っ暗な部屋に机や物が置いてあり、皆さんがその中にいたとします。
真っ暗だからどこに誰がおられるのか全く分かりません。
小さいローソクの灯が一本あれば、ああここに居るなあということが分かります。
私たちの心の中は反省ができていなかったら真っ暗な部屋と同じことだそうです。
真っ暗な心の中を反省して、ある一つを越えた時に、心に小さい法の灯が灯るそうです。
その法灯を頂くために反省をするのですね。
ローソクが日本になったらまたよけいに明るくなります。
よく反省をして法の灯が心に中に何本も点ったら、
小さいごみが落ちているのまで見えるはずです。


            ~ 感謝・合掌 ~






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「心行の解説」より。

2014-04-05 03:25:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真は今日のインドではビハール州にある紀元前5世紀頃に創設された
   最大の仏教の学院(今日で言う大学)の遺跡です。
   当時、学生1万人以上、教師も1,000人を数えたと言われています。


              ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

不思議なもので、三日、四日、五日と坐って一つの事をずっと追求しますと、
その時の場面がほんとうにそのまま出てくるのです。
私が足をパアッと切った時の感覚がはっきりと出てきます。
あの時の肉が裂けたあの感覚がはっきり再現されるのです。
だからほんとうに反省に取り組むと、その時の状況が詳しく思い起こされます。
この時、親に友達の名前を告げたはずです。そこで、友達の立場に立って考えた時、
自分の所へ遊びに来ていないのに、来て怪我をしたと言われたら、
その友達はどんな思いをしただろうか、またどんな思いで私という人間を見たであろうか、
相手の立場に立って自分を見た時、「ああ、申し訳なかったなあ」と思います。

私は幼い頃から、想いの中では何と悪い奴、悪知恵ばかり働いて、嘘をつくことばかり思って、
何と嫌な人間だということがよく分かります。
次に母の立場に立って考えてみました。母は足の怪我を見てびっくりしましたが、
これは友達の家で怪我をしたのではないことぐらい分かっているはずです。
血止めの草をすりつけてボロ布で巻いているのですから、これはおかしいなと思ったはずです。
そのことよりも、「ああ痛かったやろうな、可哀そうになあ」という母の愛のほうが大きいのです。
その母に対して、小さい七歳の私が嘘をついている、その己というものを見詰めた時に、「何と申し訳ない、
お母さんの愛に対して幼い頃から嘘をついていた私、どうか許して下さい」と泣いてお詫びをさせてもらったものです。
その時、もし羽があれば飛んで帰ってでも土下座して母にお詫びがしたい気持ちが湧き上がってきました。
しかし羽はありませんし、帰れないので、すぐ電話をさせてもらったのです。
電話の向こうで「もしもし」という母の声を聞いたとたんに、心は幼な子に返っていました。

私は子供の頃、母を「おかあちゃん」と呼んでいたのです。
電話での声を聞いたとたんに、「おかあちゃん、堪忍してや、堪忍してや」と言ったまま
電話器を持ってワンワン泣いてお詫びしていました。
母親の愛というのは有難いものです。
突然電話に出て、幼い頃の呼び方で「おかあちゃん
堪忍して、おかあちゃん堪忍して」と泣いていたから、「お前、頭は大丈夫か、
頭がどうなったのと違うか」と気遣ってくれます。
「僕は幼い頃から親不孝ばかりしてきました。どうぞ許して下さい」と言いますと、
「頭は大丈夫か」と尋ねられたのです。
「私の言っていることは頭がおかしいように聞こえますか」と聞くと、
「いや別におかしゅうはないけどな、いい年をしてそんなに泣くな」親というものは何を知っても心配して下さいます。
次には、どうしようもない罪深い己自身の姿ですね。その時、
今反省をさせてもらったいる自分の意識でもって幼い時の悪餓鬼の己自身に対して、
「やさしい提言」を与えなさいと教えられました。
優しい提言といいますと、これは難しいことです。つまり自分に、慰めと励ましを与えなさいということです。


                  ~ 感謝・合掌 ~






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「心行の解説」より。

2014-04-04 00:34:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はお釈迦様がお生まれになったルンビニに建立されている仏塔です。
   仏塔は当時の全インドを制定されたアショカ王の寄贈によるものです。


           ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

竹藪の中に入って手頃な竹を見つけ片足をその斜面にあげて落ちないようにしてから
鉈を振り下ろした時、自分の足をスパッと切ってしまったのです。
足の外踝の上十センチ辺りに鉈が当たってしまいました。
ここは案外血管も少なく骨が近いところですからパカンと割れて真っ白なみと中の骨が見えています。
さあ、これはえらいことをしたと思いました。
もし畑とか仕事をしていて怪我をしたのなら、「お母ちゃん、えらいことをした、何とかして」と言えるのですが、
嘘をついて隠れて悪いことをしたのだから言うこともできません。
まず血が出ないようしなくてはいけないと考えたのです。

私は田舎で育ったので薬草や血止めの草のことをよく知っていましたから、血止めの草を取って、
ぐっとしぼって傷につけて、その上から血止めの葉で押さえ、ここを何とか括らなくてはいけないと思って、
やっと道まで出て来て、道の端に落ちていたボロ布で足を縛ったのです。
「えらいことをしたなあ、何と言って言い訳をしようかなあ」と七歳の幼い頭で一生懸命考えたのですが、
いい考えが出て来ません。家の近くまで帰って、私の家と隣の家との
間が一メートル近く空いているところへ、冬の間は田の稲を干す長い木が使わないでかこってあるのですが、
その隙間へ入って、「どうしようか、どう言って親に言い訳をしようか」
と思いあぐねていました。他の山へ木を切りに行って、自分の足を切ったと言えば怒られますから、
何とか逃れる方法はないものかと考えているうちに外が暗くなり、
もう仕方がないから勇気をふるって家の横の入口から「ただいま」と言って入ったのです。

「遅かったなあ、今まで何してたのや」と母が聞くので、「友達の所で遊んでいて怪我をした」と言ったのです。
その時、母は「ちょっとみせてごらん」と言って「こんな汚い布で。
どうして向こうのおばちゃんに行って按配してもらわなかったのや、こんなえらいことになっているのに、
痛かったやろう」と薬を塗り、新しい包帯をしてくれたのです。
その時、私は大きな嘘をついているのですが、親はそんなことには関係なしに、
「ああ痛かったやろうなあ、可哀そうになあ、辛かったやろう」
「友達のお母ちゃんはなんで按配してくれんじゃったろう」と言ってくれたそのことを、
ずっと反省させていただきました。


               ~ 感謝・合掌 ~






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「心行の解説」より。

2014-04-03 01:18:53 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ 上のお写真はネパール最大の火葬場バシュバティナートです。
   このお方の火葬の後の灰はすぐ傍の聖なるガンジス河の支流
   バグマティ川へ流され御霊は天の御国へ召されたと思います。


       ~ 恩師の「心行の解説」より ~


         「正しく定に入るべし」


正しく定に入るとは、
自分の心をよく見詰めて「反省」をしたあと、一時の安らぎの時間を持つことです。
今日は「反省」について学びたいと思います。
反省とは、自分が生まれてから今日までの間にどれだけの過ちを犯したか、
それは、思いの中で、言葉の上で、
また行いの上でとうであったかと徹底的に自分を見詰め自己反省をすることです。
幼い頃の反省に入りますと、必ずお母さんが出てきます。
もし友達と喧嘩して、友達に傷をつけたり友達を泣かしたりした時、
お母さんはわんぱく坊主に代わってお詫びに行って下さいます。
また何か悪いことをして見つかった場合や他の物を盗んだ時には、
やはりお母さんが謝りに行って下さいます。

私が幼い頃を反省した時の話をもう一度今日させていただこうと思います。
私が小学校一年生の時ですから、七歳ぐらいの頃のことです。
友達は百姓の子もあればサラリーマンの子もあり、お店をしている家の子もいました。
そういう子供たちは全部遊んでいます。
私の場合は水呑百姓ですから学校から帰って鞄を置くなり、「今日はどこの畑に来なさい」
と言われて、すぐ鎌か鍬を持って畑へ行くのです。
そして畑の側で遊んでいる友達を見ては「ああ僕もいっしょに遊びたいなあ、羨ましいなあ」と、
常に友達と自分を見比べて、皆は遊んでいるのにどうして僕だけ畑へ行かなくてはいけないのかと、
自分の運命を思ったものでした。
たまには遊びたいという思いが昂じて、ある時、嘘をついて畑へ行くのをさぼったのです。
「今日は友達とどうしても勉強しなくてはいけないから」と、親に嘘をつき鉈を持って、
竹トンボを作る竹を取りによその竹藪へ行ったのです。

そこは凄い急斜面の竹藪で、
小学校に入って間のない頃ですから私にとってはちょっとした冒険です。
竹藪の中に入って手頃な竹を見つけ片足をその斜面にあげて落ちないようにしてから鉈を振り下ろした時、
自分の足をスパッと切ってしまったのです。
足の外踝の上十センチ辺りに鉈が当たってしまいました。
ここは案外血管も少なく骨が近いところですからパカンと割れて真っ白なみと中の骨が見えています。
さあ、これはえらいことをしたと思いました。
もし畑とか仕事をしていて怪我をしたのなら、
「お母ちゃん、えらいことをした、何とかして」と言えるのですが、
嘘をついて隠れて悪いことをしたのだから言うこともできません。
まず血が出ないようしなくてはいけないと考えたのです。
私は田舎で育ったので薬草や血止めの草のことをよく知っていましたから、
血止めの草を取って、ぐっとしぼって傷につけて、その上から血止めの葉で押さえ、
ここを何とか括らなくてはいけないと思って、やっと道まで出て来て、
道の端に落ちていたボロ布で足を縛ったのです。


            ~ 感謝・合掌 ~








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「心行の解説」より。

2014-04-02 01:00:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はお釈迦様が大悟されてその法悦で場所を七日毎に七か所変えられて
   その悦びをされたと言われている内の一か所の「蓮池」です。
   この蓮池でその法悦に浸っておられたお釈迦様を大蛇が首の周りを傘のように
   拡げて雨から守ったと言われています。
   それを形造ったのが蓮池の中に建立されているお写真の像です。


           ~ 恩師の「心行の解説」より ~


    「このときに神仏の心と己の心が調和され心に安らぎを生ぜん」


心に神仏の光明を頂いた時に、神仏の心と己の心が調和され、
一体となることができます。
調和とはバランスでありハーモニーのことです。
大変難しいことですが、神様の御心を人間が行いをもって現わした時、
神の心と調和されるはずです。

ですから日々の生活において、
自分が可愛いという自分を甘やかす生活をある程度犠牲にして、
他への愛を実践することです。
神の御心である差別をすることなく、どなたとも平等にお付き合いをし、
人を責め裁くことをせず、どなたもみな許させていただくことです。
太陽は私たちに幸せになる方法をちゃんと教えて下さっています。
太陽の心を実践した時、必ず幸せが約束されます。
なぜかというと、自分の心が苦しまないからです。


              ~ 感謝・合掌 ~






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「心行の解説」より。

2014-04-01 00:21:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ お写真はお釈迦様が大悟された菩提樹の下に安置されている金剛法座の傍らに置かれていた「仏足石」。
   その当時はお釈迦様の像を造ることは禁止されており、このようにお釈迦様の足形を
   石に刻み比丘・比丘尼・衆生がこの仏足石を拝していたと言われています。
   現在はこの仏足石に限ってはガラスケースに入れられています。


         ~ 恩師の「心行の解説」より ~


  「かくのごとき正法の生活の中にこそ神仏の光明を得
            迷いの岸より悟りの彼岸に到達するものなり」


「八正道」の生活を実践した時に、私たちは求めることなしに
「神仏の光明を」が与えられます。
私たちの生きるこの世は迷いの岸です。
そして向こうの岸というのが悟りの彼岸です。
私たちはこちらの岸で迷っていますが、
「八正道」を実践することによって向こう側の悟りの岸へ到達することができます。

お釈迦様の当時のインドは、ガンジス川(ガンガ)は川幅も広くて、
こちらに住んでいる者にとって対岸は、
すばらしい世界に思われて、向こう岸はいいなあと思っていたのです。
それを仏教では「悟りの世界」と説かれたのです。
その向こう岸が彼岸です。春と秋に「お彼岸」がありますが、
あれは向こうの岸のことで、
それは苦しみのない安らかな悟りの世界です。
その世界へ渡るためには「八正道」を実践しなさいと説かれています。


              ~ 感謝・合掌 ~



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