一朱金
先年家の改修の折、唐紙の引手金具を外した僅かな隙間に小さな布袋を見つけた。
端切れを千代紙細工の様に折りたたんで縫った袋の中には、日本紙にひねられた一朱金貨が入っていた。
金貨とはいえ金含有率が10%程度のためか、光沢はなく銀銭の様に黒ずんでいて、刻印の一部に申し訳程度の山吹色がかすかに残っていた。
江戸末期の一朱は現在の金額に換算していかほどの金額になるのだろう、あらゆる基準が変動しており比較は難しいが5千円から1万円というのが近い数値と思われる。
引手の奥にしまい込んだのは誰だろう、この貨幣が流通した文政 天保当時の当主は助衛門で、その妻(室)は天保12年2月に没している。多分亡くなられた室方の細工だろうと思う。
[一朱金について(Wikipediaより)「形状は正方形。表面には、五三の桐紋と下部に「一朱」の文字が刻印されている。 裏面には「光次」の署名が刻印されている。額面は1朱。その貨幣価値は、1/16両、また1/4分に相当する。 二朱金、二分金とともに小判、一分判に対し一両あたりの含有金量が低く抑えられ、補助貨幣的に用いられた。金純度が最低水準であり、他の小判および分金同様に製造時に表面の銀を溶解する色揚げ操作が行われていたが、流通による磨耗からすぐに銀色の地金が姿を現し、さらに火災に遭うと固体拡散のためか銀貨同然の光沢となったという。 また通常、小判および分金は製造過程で一枚ずつ厳密な量目(質量)の検査が行われるが、この一朱判に関しては、五両ないし十両一括で量目の検査が行われるという始末であった。文政7年(1824年)5月から鋳造が始まり、同年7月2日より初めて発行されたが、金純度も低く偽金貨のような色を呈し割れやすいもので、 その上、小さくて扱いづらく紛失しやすい事もあり不評であった。 天保3年(1832年)に鋳造終了、天保11年(1840年)9月末には通用停止となった。」]