書きたくないのですが,これまで人権にかかわる仕事に関係してきた経緯から書かざるを得ない心境になりました。それで,以下の記事をしたためました。何でもありの時代なので驚くほどではないのかもしれませんが,それにしても度を越しているように思えます。
21世紀を迎える直前,人権をたいせつに考える人々はこう唱えました。「21世紀は人権の世紀」。そうなることを期待して,強い願いを抱いて唱えたのでした。
ところが,ところが。とんでもない事案が頻発しています。この18日に沖縄県で発生した侮辱発言もその一つ。それについては,なんとも情けなくって,嫌気を感じてしまいました。中身はそれぞれ20代と50代のおとなが口にした次のことばです。
20代の機動隊員氏。「どこつかんどるんじゃ,ぼけ,土人が」「黙れ,こら,シナ人」。これ,抗議行動をしている人に対する,人のこころを著しく傷つけることば。しかも公務中の出来事です。つまり,公権力の行使なのです。「そこのけ,そこのけ」といわんばかりの横柄さが透けて見えます。たとえ抗議活動の有り様に憤慨して口にしたことばであれ,それをいっちゃおしまい。
50代の知事Mさん。上の隊員を派遣している自治体の長です。「表現が不適切だとしても,警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」(報道情報)。これ,批判が出て来たことに対して,ツイッターで擁護したことば。
両者に共通して感じられるのは慮りの欠如と慢心,それに依然として残る公務員の強権体質。「俺に付いて来い」めいた意識で仕事に当たる傲慢さが際立っているように見えます。
「ことばはこころの窓」。この隊員氏がどの程度の教育を学校時代や職場で受けたかわかりませんが,人権教育の芯に当たるものに触れる経験はまったく,あるいはほとんどなかったのでしょう。こころの栄養はどのぐらいあるのかな。それを思うと寂しい限り。そう感じとれる関係者は周りにどれだけいらっしゃるでしょうか。現職時代,忘れたことのなかった「指導者が率先して人権感覚を磨け」「公務員は全体の奉仕者」とのことばが今,くっきりよみがえってきます。
Mさんの発言中の「表現が不適切」「一生懸命」の脈絡には唖然とします。先の「表現は不適切だが,一生懸命だった」は,「一生懸命だったが,表現は不適切」とはまるで反対の意味です。このことばは前者に当たり,要するに一生懸命さを弁護したいだけのよう。品格と資質をこころから疑います。ことばの学び直しが必要のようです。Mさんがふつうの感覚の持ち主なら,一貫して「隊員(部下)に代わってこころからお詫びを申し上げます」ぐらいの姿勢は示せるでしょうに。
今回は,人権文化の反面教師,その典型を見た思いがします。賛否両論があることは理解しつつ,わたしはきっぱり批判側に立ちます。
こういうふうに思慮に欠けた事案が多発する背景には,人権感覚の貧困さがあるように思います。人のこころの痛みに己がこころが至らないのでしょう。とりわけ,公の仕事に携わる人の言動であるだけに困りものです。学校教育で学ぶ子どもの未来がほんとうに不安になります。教育現場で奮闘している人の努力が吹っ飛びます。地域で人権について地道に学び続ける人にとっても心地よくありません。困ったおとなになりたくないものです。困ったおとなになってほしくないものです。
(注)写真は本文とは関係ありません。