【2007年の記事】
消してしまいたい記憶っていうのは、だれにでもあるのかな?
記憶って、脳だけでなく、五感とか神経細胞とかも含めて、すべての細胞が記憶しているといわれています。
体験とか経験とかの記憶、衝撃的な映像、忘れられないことばの記憶。
もっとあやしげな言い方をすると、魂とか前世とか(ほんと怪しいかも)そういう記憶で、人間はできているといっても過言ではないかもしれません。
私は、「この記憶は消してしまいたい」とおもうような出来事があり、
マジで「だれか消して~」なんて思っていました。それくらい苦しくて苦しくて、
それを思い出すアンカーに日常的に触れていたので、どうすることもできない状態でした。(もち、現在も、そのアンカーは存在するわけで、それに触れると一気にフラッシュバックしちゃうってわけですが。)
人間の脳のシステムってすごいもんで、潜在意識というかそういうものがはたらいて、
生存して行くために「危険」と脳が判断した場合は、(この時はたらく脳は生存にかかわる爬虫類脳です)意識的に思い出せないようにするという働きがあることも確か。
ですが、私が消したいと思っていた記憶が消されていないということは、生存にかかわるものというものでもないわけで(笑)そこから、学べよ~ってサインですか。(笑)
記憶を消したいって「思っていた」という過去形になっているのは、当然、今はそうは思っていないわけです。
いやなことは、もちろん忘れてしまいたいとは思うのですが、ちょっと待てよ・・。と、昨日ふっと思いました。
成長の段階で体験した不愉快な出来事も、楽しい出来事も、すべてそれがあって、今の私がいるのです。
いやだったと思う出来事は、確かに自分の不合理な信念をつくったものであるのかもしれない。
でも、それらも含めて、「自分」であるということをふと思いました。
それらの記憶をけしてしまったら、とってもよいすばらしい信念をもった人間となるのか?というと、それは言い切れない。
体験の解釈が、私のたくさんのよい体験を引き出したってことだってあるのです。つながってつながって、今の私があるのです。
出来事そのものは変えられないけれど、出来事そのものが持っている意味は自分で変えることができます。これは、NLPでも何度も学んだこと。
この意味がこれまでとはもうちょっと深い意味で思いがけず、降って来ました(あやしい言い方だ・・・)
「すべての出来事には肯定的な意味がある」・・・NLPerにとっては当たり前の概念です。
苦しい出来事があると、常に「この出来事の肯定的な意味は何だ?」と問いかけてきました。そのことで、見方が変わって、冷静に物事をみるということが、できるようになっています。
しかし、あまりに苦しい出来事に関しては、ちょっとやそっとの「意識の理解」では、乗り越えられそうにないことも。
それでも、これまでの自分の生い立ちから、現在に至るまでのどんな記憶も、「消そう」とは思わなくなっている自分がいました。
だって、その体験から学んだこともすべて消えてしまうと思うからです。そしたら、私という今の存在があやふやなものになってしまいそうで。
神様は、その人が乗り越えられない課題はあたえないといいます。(またまた怪しいことばですが)
以前、ある方と話しをしていたときにも、
「自分の生い立ちの中で体験したことは、すべて、自分が今しようとしていることの原動力というかそれに気づかせるためのものだった」ということに気づかせてもらいました。
だとすると、どんな体験も、ちゃんとその人の人生にとって意味があるということ。いやな体験をわざわざ思い出す必要はないのかもしれませんが、
そこで学んだことは、生かす必要はあるのかな・・と。
体験によって、不合理なビリーフが形成されることは多々あることです。
人によっては、ものすごいトラウマ(震災とか大きな事故とかによるもの)があり、その方たちにとっては、
生きるか死ぬかというすごいものです。私は、それほどの体験があるわけではないので、そんなに簡単にそんなことを言ってはいけないのかもしれません。
ただ、現段階において、私に起こった出来事は、すべて学ぶべき課題を提供されたもの、人生において、何をすべきかを探究するためのものであったと感じています。
私自身においては、「体験を引きずる人間」としての人生シナリオを書くのか、
「体験を学びに変えて人生に生かす人間」としての人生シナリオを書くのかは、私自身の意識にかかっているということだと思います。
まだまだ、学びは続きます。
「生涯学び」だから、学びきったといえることはないでしょうが、ふと沸き起る気づきは、大切にしていこうと思います。
明日からの3学期開始を前に、意味不明の記事でした。