目の前に大きな壁が立ちはだかった5ヶ月半前。
私はどうなるのか?
本当に不安でした。
振り返ってみると、私が一番辛かったのは4月25日に救急搬送されて入院した国立の某病院のころでした。平成から令和に移行したころです。
だから私の令和元年は一生忘れない年でしょう。
呆然と立ち尽くしていた日々。
その中で、やらなくてはならないことは山積していました。病床で夫が「大変だね」と私を心配していましたが、今から考えるとあの時を乗り越えた自分が信じられないです。
嵐の中にいたみたいです。
その後、在宅看護していた17日間は、本当に静かに2人の時間を味わいました。看護師さんの仕事をジッと見ていた私は、時間がかかってもできるようになりました。
やや強引に車椅子に乗せて散歩した近くの公園。鳥のさえずりを聞いて「いいねぇ!」と、感動してくれましたね。
いい時間でしたね。
綺麗好きだっだからちょっとでも汗をかいたらすぐに身体を拭いて着替えさせました。
「あー、気持ちよかった!」と、いつも反応がありました。
私が世話をする姿をジッと見て、「君はえらいねー」と言ったからちょっと驚きました。
「逆の立場だったら博久さん、やってくれるでしょう?」と言ったら「当たり前だよ」と。
2度目の救急搬送は豊島病院。
私が病院に寝泊まりしていたから安心しきっていましたね。
「家に帰りたい?」と聞いたら「別に」と言われ、安堵した覚えがあります。
お別れの日を迎え、覚悟していたとはいえ、情けないほど取り乱してしまいました。
手を差し伸べてくれたのは夫の弟夫妻と妹夫妻。そして実弟家族でした。
人は人に支えられるんですね。
ほとんど毎日メールや電話。本当にありがたかったです。
夫がまだ元気だった頃は疎遠だったのに…。
私の弟家族とも近くて遠い存在。学生時代の友人とも疎遠になっていました。
超多忙だったため少しでも時間があれば夫と一緒にいたかったこともあります。
夫が喜びそうな食品を買い求め、レシピも作り、忙しかったけれどやり甲斐がありました。
食事の後は必ず「あー、美味しかった。ご馳走様」と声に出してくれました。
時折失敗作もありました。
そんな時は「今日はあんまり感激しなかった」と。(笑)
夫も協力的で、玄米を炊くのも上手になりました。
でも何よりも彼が好きだったのは、待ち合わせをして私と一緒に外食をすること。
映画に誘えば100パーセントオッケー。ディズニー映画も2人でよく観ました。
自然食レストランも探しました。
玄米のお寿司屋さんも銀座に見つけました。ここは高いお店でしたが、美味しかったです。
とにかく食費が一番かかりました。今はほとんどかかりません。
豊島病院では、若い看護師さんたちが噂していました。
「私、荻山さんみたいな人を見つけて結婚する!」と。
博久さんはそのことを知らなかったけど一番のモテ期でしたよ。
秋の夜長に亡き夫を追慕しています。
人生って、迷いの連続。
でも、私は結婚に関しては迷わなかった。
釣りバカ日誌のハマちゃんのセリフではないけれど、彼を幸せにする自信は全くなかったけれど、私が幸せになる自信があったから。
幸せな別れであったことに違いはなかったけれど、人がなんと言おうと、やはり早すぎたですよ、博久さん。