「夫と同じお墓に入りたくない」と、言う人があるそうです。
そんな言葉が出るくらいなら何故離婚しないのでしょう。打算が働いているからではないでしょうか。
よくも面と向かって「あなたと同じお墓に入りたくない」なんていえますよね。
そういう人に限って、毎日安穏と暮らし、夫の世話もせずに自分のことしか考えていないエゴイストに違いありません。
私の父方の祖父母は絵に描いたような仲の悪い夫婦でした。
九州弁で「いっちょん好かんばい」と、生涯言っていました。その割に子だくさんだから分からない。(笑)
そんな祖父母でさえ、一緒のお墓に入りたくない…とは、言いませんでした。
敬虔なクリスチャンでしたから離婚は罪だと信じていたのでしょうが、昔は離婚という考えさえ浮かばなかったのでしょうね。
今は少しエネルギーがいりますが、離婚という勇気ある選択肢があります。
自分を高められない結婚、不満だらけの結婚ならやめたほうが賢明です。
でも、この結婚が自分を成長させてくれると思えば、案外、相性が良いのかもしれません。
因みに、私はクリスチャン。
クリスチャンネームはカタリナです。
でも、お墓は俗名で入ります。勿論夫と一緒の築地本願寺です。
築地本願寺は宗派を問わない大らかなお寺です。
ところで、私は何と遊びのない人間だったのでしょう。
この30年、あまりの忙しさで、息抜きは夫と一緒にいるときだけだったのです。
よくも話がそんなにある…というくらい夫とは会話がありましたし、私にとって一番の理解者でした。夫も私と一緒が一番心地よかったと思います。
ここで、田原豊道先生語録を思い出します。
人という字の話です。
「人という字は支え合っている…というけれど果たしてそうかな?
よく見ると、片方はもたれっ放し。片方は支えっ放し。
どちらが楽でしょうか?
支えているほうが、楽だよね。自分がしっかり支えていればいいんだから。
それに対して、もたれっ放しの人は、いつ支えを失うか不安で仕方ない。」
田原先生の十八番のお話です。
私は、社会的には自立していると思っています。しかし、我が家では、夫にもたれっ放しだったので急に支えがなくなり不安定です。
夫が亡くなり3ヶ月がとっくに過ぎましたが、プライベートでは、まだまだ不安定でヨチヨチ歩きです。
自分の不甲斐なさにほとほと嫌気がさします。
まぁ、ヨチヨチ歩きでもリハビリすればちゃんと歩けるようになるのでしょう。
というわけで、まだまだ私には時間がかかりそうです。