かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

軍艦「回天」と「甲鉄」、既にあるものを使いこなす力

2010年02月07日 | 歴史、過去の語り方
先月、北海道へ行く時、吉村昭の『幕府軍艦「回天」始末』(文春文庫)を再読して行きました。
同時に安部公房の『榎本武揚』も読みたかったのですが、実家にあるはずの本がみつからず、それはあきらめました。

これらの舞台となった函館という街や五稜郭をこの目で見ることができることは、とても楽しみなことでした。



榎本武揚は、新政府に引き渡しを命じられた軍艦を様々な口実をつけて確保し、品川沖を脱出する。
構成は、「開陽」「回天」「蟠龍」「千代田」の四艦と「咸臨丸」「長鯨丸」「神速丸」「美嘉保丸」の輸送船。
乗員総数二千余人。
途中、艦隊は暴風雨に遭遇し、輸送船「美嘉保丸」は岩礁に吹きつけられ大破。多量の軍需品とともに海中へ沈んだ。

また「蟠龍」と「咸臨丸」も伊豆半島の先に漂着。
両船は清水港へ。やがて「蟠龍」は修理して出港するが、「咸臨丸」は、そのまま清水港に留まっていたところ、新政府軍の攻撃にあい激しく抵抗したが、十余名が死亡。新政府軍はこれらの遺体を放置したが、侠客清水次郎長がすすんで丁重に埋葬した。

函館へ向けて北上する途中で寄港する港のなかでも宮古では、新政府と旧幕軍の地元への対応の差が歓迎され、後にそれがまた役立つことにもつながる。
なんとか函館までたどりついた榎本艦隊であったが、最新鋭の軍艦「開陽」をここでまた座礁させ失ってしまう。

「開陽」は、オランダの民間造船所で建造された、当時世界でも最新鋭の戦艦で、入港する諸外国の軍艦でも「開陽」に匹敵する軍艦はなく、幕府自慢の1隻であった。
それを失ってしまった榎本武揚らの落胆と、その後の戦略への影響は大変なものであった。

このことで完全に不利な状況に陥ってしまった榎本軍。
追ってくる新政府軍の艦隊は、「甲鉄」を旗艦とし、「春日」「丁卯」「陽春」の4艦。
「甲鉄」は、排水量1,358トンの蒸気艦で、船体に鋼鉄板が張られている。
装備は、前部にアームストロング300ポンド砲1門、後部に70ポンド砲2門と24ポンド砲6門、それに1分間に180発連射可能のガットリング機関砲が据え付けられていて、装備全体の威力は「開陽」よりもすぐれていた。
「開陽」と「回天」は、排水量こそほぼ同じであったが、「回天」は一時は廃艦とされたほどの老朽艦で、「甲鉄」の戦闘力にははるかにおよばない。

すでに勝ち目はほぼ無くなったかに見え、悲壮な空気が榎本らに漂うなか、日頃口数の少ない「回天」艦長甲賀源吾から、よどみない口調で秘策を打ち明ける。

新政府軍が刻々と函館へ向っている情報がくるなか、新政府軍の艦隊のなかではただひとつ「甲鉄」のみが圧倒的脅威をもつ軍艦である。
そこで甲賀は、起死回生の策として新政府軍の「甲鉄」一隻の乗っ取りを提案する。

北上する新政府軍の艦隊の航路を予測して迎え撃つ場所の特定は困難を極めるが、榎本艦隊が自身が寄港した宮古は、良港でもあり、南下する時間も含めて迎え撃つにはほぼ間違いのない場所とみて、陸地の諜報活動と連携し、宮古で「回天」の乗っ取りを計画する。

攻撃乗っ取りは「回天」「蟠龍」「高雄」の三隻で向かう。
函館で土方歳三らは、「回天」に乗り移り奪取する訓練を何度も繰り返し行った。

ところが、三陸沖を南下する途中、またしても暴風雨にあい三隻はばらばらにはぐれてしまう。
「回天」は、マストが折れたりかなりの損傷を受けたが、航行は続けることができた。
通信設備などない当時のこと、互いの情況を確認することもできず、「回天」は単独で計画を実行するか、他の二隻を待ってから計画に入るか内部で激論が交わされる。

時間が経てばたつほど攻め入る側が不利になる。
結局、「回天」は単独で「甲鉄」奪取に向かうことになる。

ところが、いざ攻め入ると「回天」の甲板の高さとから「甲鉄」の甲板は、はるか下になり、容易に飛び移れない。
意を決して飛び降りると、たちまちガトリング銃の餌食に。

結局、「回天」は目的を果たさないまま、引き上げて函館に帰る。

そして再び、函館湾で「甲鉄」などの新政府軍艦隊と「回天」ほかの榎本艦隊は最後の闘いをすることになる。



この攻防を榎本軍「回天」の側から吉村昭が『幕府軍艦「回天」始末』として書いたのに対して、
中村彰彦が新政府軍「甲鉄」の側から書いた小説が、『軍艦「甲鉄」始末』としてこのたび新人物文庫として文庫化された。

吉村昭ほどの筆致は、そう誰もが書けるものではないが、私も好きな中村彰彦もなかなかの実力作家。
まだ読んでいない本の紹介で申しわけありませんが、吉村昭の作品と対のものとして中村彰彦も意識していないはずはないので、期待がどうしても高まる作品です。



と、以上は本の紹介をかねて店のブログに書いた内容。

ここまでの流れをみて第一に印象に残るのは、座礁などによる損失率の高さです。
通信技術や気象予報技術のない時代とはいえ、こんなに高い頻度で船を失っていたのかと驚きます。

もともと江戸時代は鎖国政策のもとにあったので、外洋航海そのものが禁止されていて、そうした操船技術の経験が衰退していたことも予想されます。

更には造船も外洋航海出来るような大型船の建造は幕府から硬く禁じられていたため、わずかな嵐ですぐに難破、漂流することになる悲劇をもたらす環境にありました。

その多くは海の藻屑と消えた悲しい結末っであったことでしょうが、他方、ものすごい人数の漂流民が、ロシア、カムチャッカ半島や遠くアメリカにまでたどり着き、鎖国下での貴重な文化交流をきずいていたことが見逃せません。

なにかにつけてペリーの黒船から開国の歴史を語りがちですが、そうした漂流民も活躍もあり、ペリー以前150年くらい前から、ロシアは極東に日本語学校を開き、日本との国交を見すえていました。

またアメリカは、正式ルートではなくも日本近海への捕鯨船が多数出向いており、水、食料、燃料の補給先としての要求は、頻繁に突きつけられていたようです。

たしかに決定的なきっかけはペリーの黒船来航であったことに違いありませんが、それに至る情報は決して無かったわけではありません。

にもかかわらず、成すすべもなく時間延ばししか出来ずに、国内で尊皇攘夷の嵐に翻弄されてしまいました。
果たして、明治維新は、これらに対して見事な決着であったといえるのでしょうか。

外から迫られる開国要求と、国内秩序の維持存続の選択は、何度も繰り返し歴史に現れてきます。

それは蒙古襲来にはじまり、ペリー来航、第二次大戦の敗戦とその後の占領下での独立の模索と安保、グローバル化と金融・市場開放圧力など。

常に圧倒的な力の差、技術の差を見せつけられてそれに屈する経緯をたどったようでありながらも、意外と国内にある既存の情報や技術をうまく活用しきれてさえいれば、必ずしも太刀打ち出来ない現実ではなかったことも感じさせられるものです。

外国の優れた何々を導入すれば解決する、ではなく、
それを使いこなす力、さらにはその前に自分たちが持っていた技術や、その時につかんでいた情報をきちんと活かしていれば、外圧に慌てる必要はない確かな文化を常に日本人は持っていたのではないかと思えてなりません。

と簡単に言ってしまうと尊王ナショナリズムとなんら変わらないことになってしまうかもしれませんが、「回天」「甲鉄」などの軍艦の戦闘史をつぶさにみると、何々が無くても常に突破口はある、また、どんなに優れた何々があってもそれは保障にはならない、と感じずにはいられません。

今の私たちのまわりにあるデフレ危機?
不景気?
政治不信?
衰退する地域?
崩壊する自然?

いえいえ、必要なものはすべてもう揃っているのだと。

情報はある。
金は足りないことはない、必要であれば必要なだけ集められる。
いや、多くのことはお金がなくても出来てしまう。
スポーツマンほどの力持ちではないかもしれないが、必要なだけは十分働ける体は持っている。

やっとホンモノの時代が眼の前に現れたのです。
そう感じずにはいられません。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする