かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

年のはじまり、月のはじまり、1日のはじまりのこと

2014年12月24日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 都丸十九一先生の本のなかで、かつて先生の亡き奥さんのお父さんは、一昨日の夜のことをキニョウノバンといっていたと書いてます。

 昨夜のことは、もちろんユウベという。これはどこも同じ。

 ところが、キニョウノバンが、現代の常識では「昨日の晩」になるが、この地域では「一昨日の晩」のこととして使われているのです。

 たしか、「おととい」や「あさって」という言葉も、地域によっては誤解される異なる使い方をしていることをどこかで読んだことがあるような気がします。こうした物言いは、古風を保っているところでは、日本各地に共通するばかりか、日本だけでなく、世界のいくつかの民族語にも共通するとして都丸先生は以下のような指摘をしています。

 この問題を解決するには、一日の初めをどこにするかに関わっている。読者の皆さんはどうお考えだろうか。

夜中の0時から一日が始まるというのは暦法上のことだ。人々の感覚では、起床した時とか、朝日が出たときとかが一日の初めであろう。ところが昔の人は日没をもって一日の初めと考えていたらしいのである。日没(昨夕)から次の日の日没までが一日。つまりユウベが先に来て夜を経てアシタ、日中となる。これが一日の順序だった。

 このことは、いくつもの歳時によって証することができる。元日は、前夜の大晦日から始まり、一晩中寝ないで神に奉仕する。寝ると白髪が増える、とは各地でいわれてきた、正月十四日の夜も同様だ。

あとで出てくるように、秋の十日夜(とうかんや)は、多くのところで九日夜(ここのかんや)だった。九日夜の伝説は、あとで解説のために生じたものである。初午の行事も、古風を保っているところでは、すべて前夜だった。山間部に多い山の神を祭るのは十二日としながら実際の祭りは、前日の十一日が多い。まだまだ多い。

名社といわれる神社の祭りにも宵祭りがむしろ重視される。そして神社の神秘な神事は、多くのものが真夜中である。例えば一の宮貫先神社の鎮神事などは夕方から始まって真夜中が中心だ。

       (都丸十九一『上州歳時記』 煥乎堂 より)

 

旧暦や行事のことをいろいろみていると、確かにこうしたことが少しずつ自然に理解できてくるようになります。時計やカレンダーのない世の中では、真っ暗闇の午前0時を起点にすることなど難しいし、ありえない。

日の出か日没時刻のほうがずっとわかりやすい。月の区切りも、現実には新月を起点に判断することは難しい。徐々に満ちて行き満月なった日を起点にするほうがわかりやすい。多くの行事は、そのようになっていることが多い。

そんなことを考えていたちょうど矢先に「朔旦冬至(さくたんとうじ)」という19年に一度の太陽の復活の日「冬至」と月の復活の日「新月」が重なる日、12月22日になりました。

http://grapee.jp/25042

これこそ正真正銘、本来の一年がはじまる日です。

 

太陽を軸としたグレゴリオ暦は、世界標準になってしまったものの、いかに細部は自然を無視した合理性に欠けた部分が多いかを痛感させられます。
総じて、国王や国家の力が強くなると、太陽暦の比率が増して、国王や国家の力が弱い社会では太陰暦の比率が増すような気がします。

「天地、機有り」という言葉があります。「天地」すなわち自然の理(ことわり)を尊重すると、「機」、すなわちそこに自然の運行のしくみがあり、それを知ることで人は種まきなどの機会を知ることができる。

たしかに現代の暮らしでは、1年のはじまり、月のはじまり、一日のはじまりが、どこであろうがそれほど致命的な問題にはならないかもしれません。しかし、現代のデジタル時計であらわされる数字だけの時間感覚から、照明に左右されない昼と夜の異なる世界、月の満ちて欠けていく時間の流れ、太陽の高さ、影の長さの変化など、天と地の呼吸を感じる「時」の感覚を取り戻すこと、それは、命の息吹を実感する幸せな暮らし感覚を取り戻すことに他なりません。

でもなぜ日の出の時刻ではなく、日没が一日の始まりになるのか。

後に気づいたことですが、日没とともに「ああ今日も一日が終わった」と感じるのは、ごく自然な感覚です。
それは一日の終わりであると同時に一日の始まりの起点でもあるわけです。
ちょっとしたものの言い方の違いですが、「日没が一日の始まり」というと奇妙に感じる現代人でも、「日没とともに一日が終わる」のだと説明すれば、なんら不思議なことではなくなります。
ものごとの終わりは、同時にものごとのはじまりであるという根本道理の理解が、日常では意外と難しいものですね。


また、このことを考えるには、現代の生活からは想像することも難しくなってしまった「夜」という時間の本来の姿を思い出すことから始めなければなりません。それこそ「月夜野百景」の核心テーマにつながる問題なので、これはまた機会をあらためてじっくり書いてみたいと思います。

 

 

「1年のはじまり」物語のいでき始めのおや 月夜野アーカイブ

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