かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

昔は元日にみな年をとっていた

2014年12月31日 | 暮らしのしつらえ

日本では古来、誕生日にではなく、新年元日(旧暦)に年齢を加算していました。
したがって、年をとったことを祝うなら正月であり、生まれた日を祝う習慣はありませんでした。

大晦日の夕方から元日の日の出までの時間は、おじいさんから孫まで、ひとつ屋根の下の家族が、たいへんな高揚感をもってむかえられていたことと思われます。

(さらに一日のはじまりが、かつては午前0時でも日の出の時刻でもなく、日没の時から一日がはじまっていたことを
前に「一年のはじまり、月のはじまり、一日のはじまりについて」
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/a6cd7eee2428ed18e62d5ab98d5cc637で書きました。)

 

私は、その習慣ははたしていつ頃から変わったのだろうかと思っていましたが、その習慣が昭和の法律によって廃止されたとは知りませんでした。

昭和25年(1950年)1月1日に施行された「年齢のとなえ方に関する法律」(昭和24年5月24日法律第96号)です。

 

西暦で誕生日を祝うことが当たり前になったかのような現代ですが、そうした習慣が定着したのは、昭和になってからのことで、古老の話を聞くと昭和24年のこの法律が施行されても、東京オリンピック(1964・昭和39年)の頃まではかなり広範にこうした習慣は残っていたようです。

誕生日を祝う習慣がなく、新年に一斉に歳をとるということは、誕生日を祝うことが定着した現代では跡形もなく消えたかにも思えますが、「数え年」という年齢の数え方には、そのまま名残として残っています。

「数え年」というのは、私はてっきり早生まれの人だけが意識することかと思っていましたが、これはそういうことではなく、誕生日に関わりなく年齢を計算する考え方で、まさに元旦を持って歳をとるという姿そのものです。

 

「数え年」というのは、0歳という考えがなく、生まれた時点で、1歳となる考え方です。

 以降、1月1日を迎えるごとに、1歳プラスがプラスされていきます。

 

だいたいはこういった説明がされていますが、私たちにとって大事なのは、「数え年」は、こうした数え方がされていますということではなくて、誕生日を祝う習慣がなく新年に皆一斉に年をとっていたのだということの名残としてこの「数え年」があるのだということです。

私たちが「暦」というもののポイントを知るいくつもの大事な要素がこのテーマには含まれています。

そのひとつが、新年イコール太陽歴の元日では、太陽や月の運行に基づいた暦上では何の意味も持たないので、西暦が強要されても庶民の暮らしには、なかなか馴染めないものがあったということ。

つまり、365日の第1日目は、太陽周期の割り算の結果に過ぎず、1年の区切りを天体の運行から見れば、冬至や立春などの日の高さの極日や、満月や新月の日こそが自然界では合理的な区切りであったのです。

 

もう一つは、1日の始まりも午前0時という時間の合理性も、太陽や月の運行からは意味がなく、日の出・日の入り、月の出・月の入りこそが、区切りの大事な目安であるということです。

季節の行事で宵の〇〇、前夜祭などがあるのは、そもそもこうした1日の始まりというのは、午前0時を区切りとしたものではなく、日の入りや月の出こそが1日の始まりであるという古くからの習慣の表れ、名残りであり、それは地球生命のリズムに即して考えれば決して非合理なものでもないということです。

 

 

 

それにしても、長い年月親しまれている国民の生活習慣を、どうしてこれほどまでの強制力を持って変えなければならなかったのでしょうか。

実際には、給料計算や諸手当の支給方法などをケチったり矛盾を解決するためなどの理由もあったようですが、いつの時代でも、為政者は民衆の暮らしに介入して管理を強化し続けるものです。

ところが、明治維新以降は、執拗に国民の「心の習慣」にまで介入するようになりました。

「近代化」という名のもとに。

江戸時代以前も、封建的しがらみに苦しむ民衆は数多くいました。

それでも、ときの幕府が民衆の「こころの習慣」にまで介入することは、
キリシタン弾圧などの他には、それほどはありませんでした。

実際にあっても、様ざまな抜け道や現場の裁量のきくことも多かったと思います。

ところが、明治以降の政府の介入は、「近代国家」づくりのためには、
何事も国の隅々にまでゆきわたる管理でなければなりません。

それは戦後一貫して、一層その流れが強まる傾向にあります。

 

わたしたちは、この「近代化」という大きな歴史のうねりにやっと疑問をもち始めました。

「暦」というものは、「お金」とともに近代国家づくりの大きな要をなすものです。

合理性を求めることは社会に不可欠なことですが、
より自然の摂理にしたがうことと、心の習慣を大切にすることを
もっと社会全体で考え直していかなければならないと思います。

決して古いものが無条件に良いというわけではありません。

「近代化」という社会観は、あまりにもひとつの方向の価値観で
突き進みすぎたように思えるのです。

どちらが正しいか「国家」が決めるようなことではなく、
多元的な価値観が必要に応じて併存できる世の中を
もう少し取り戻してもよいのではないかと思うのです。

 

自然界の割り切れない世界をいかに合理的に割り切れるように説明するか問いう方向と、

自然界の割り切れないものは、割り切れないまま、いかにそれに忠実に生きていくかという方向とを、

無理やりどちらかに統合してしまうことなく、うまく使い分けていきたいものです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八束脛遺跡と羊太夫伝説

2014年12月31日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 

群馬では、比較的よく知られた話で羊太夫といわれる伝承物語りがあります。

 

そもそも羊太夫って何者か、なんで羊なのか、よくわからないことが多いはなしなのですが、一般にこの伝説は、以下の資料などで知られています。

 

『多胡砂子』

「土人伝ふ、羊は名馬に乗て奈良の京迄日参しけるが、八束脛と云る従者馬につき供せしを、或時、脛疲れたる隙をうかつにあやしく思い史まま両脇を見れば翼あり、試に抜捨てしより後、名馬につづき行事あたわざる故、朝勤も怠りし節、羊を恨むる者有りて、逆意を企るよし讒奏におよびしにより、都の討手下り、羊討に伏しぬと云う。」

 

さらに多胡氏を名乗る家では『多胡羊太夫由来記』という由緒書を伝えている。

井上清・長谷川寛見 共著 『多胡の古碑に寄せて』(あさを社)には、戦記物としての形を整えた「羊太夫栄枯記」(茂原家蔵)が最も詳しいとあります。

 『上州の史話と伝説』第二巻(上毛新聞社)絶版に詳しく紹介

 

以下のサイトがとても詳しいので、ご参照ください 

多胡碑の「羊」と太夫伝承

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin10/hitujika.html 

多胡碑と羊太夫伝説に関する文献目録

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin10/hitujimo.html

 

また地元吉井町を中心に「ひつじ大学」なる活動もありました。

http://hitsuijiuni.blog37.fc2.com/

 

 

これらは、もっぱら多胡碑で知られる古代文化の集積地、群馬県南西部を舞台とした物語りであると思っていました。

 

 

ところが地元(旧)月夜野町にある八束脛遺跡が、同類の伝説をもつ場所と知り、その相関、類似性がいったいどのような意味をもつのか、とても興味深く思えました。

 

「八束脛伝説と奥州安達ヶ原」

 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/90a154de37e25ae599b2f8a9516f9241

 

 

 地元の八束脛大明神の伝説を記述した文献は、飯塚正人著『異聞刀祢の伝説」(啓文社印刷)のほかにもいくつかあると思われますが、文章は『古馬牧村史』のものが、比較的わかりやすくまとめられていたので、以下に引用させていただきます。

 

 

 八束脛大明神の由来

 

 後閑の八束脛大明神の由来を聞いてみると、神代か人皇の代かはっきりしないほど昔、羊の太夫という人があって、この方は天下を統べられる王様の血統をひく、尊いご身分であられたが、何かわけがあって都からはなれたこちらの地方へお下りになり、小幡山の旧跡、八束脛の城に、三百余人の強い兵を従えて住まわれた。 

 その兵の中に、尾瀬八つかという背丈一丈(3m)余り、よく肥って、脛が八つかみあるので、八つかとよばれる人がいた。

 羊の太夫殿は、雲羽、羽場という二匹の名馬を置かれた。この馬は一日に千里(4,000㌖)ずつ飛行する。それで羊の太夫殿は、ここから内裏(だいり)「天皇のごてん」へお伺いするのに、日帰りになさった。お供(とも)は尾瀬八つかであった。八つかは徒歩であとをつづいた。

 あまり暑いので、羊の太夫は碓氷峠の松の木の下で馬からおりてお休みになったので、八束も休み、眠気がさしてとろとろと眠った。その寝姿を見ると、袖のすきから腋の下に小さい翅(はね)が見えた。羊の太夫は茶目気をおこしてその翅を引き抜いた。とたんに八つかは眼をさます。羊の太夫は馬にのって屋敷へ帰ったが、八つかは見えず、ややしばらくあってやっとたどりついた。

 その後は参内にお供することができず「これをおもうと、あの翅のせいであのとおり早くつづいてくることができたのであったか。かあいそうなことをした。」と羊の太夫殿は悔やまれたという。

 その後羊の太夫殿は、参内の帰りに、信州の浅間山の麓で多ぜいの賊徒にとりこめられ、是非なく奮戦したが、多勢にはかなわず、ついに討死なさった。ここを雲馬の地という。これは軽井沢と沓掛との間の原である。

 やがて羊の太夫の居城へ賊徒が押し寄せ八束は城兵にさしずしをして戦ったが、賊は多く、しかも強かったので、味方は討死、八つか一人、人間わざとも思えぬ奮戦の結果敵を追い払った。が八束はひとりぼっちとなり、何をするでもなく、羽馬という駒に乗って、奥州の方へ落ちのびたが、人目に立つので人里に住むことができず、山にひきこもり、おりおり村へ出て食物を求め、暫くの会津山と上野国の北山に来て、よい住みかはないかとさがしたところ、幸にも、その深さが何十丈(百m以上)とも知れない洞穴があり、藤蔓が穴の中に茂っている。その蔓をたよって穴に入り、「これはこのうえもないよいすみかである。」と、そこに住まわれた。

 

 

 それから山々を歩き、あらゆる木の実を取って食べたり、貯えたりして、幾年も住んでいて、遠くへ行くときには、羽馬の駒にのった。昔からの山の鬼神(おにがみ)というのは、この八束のようなものを申し伝えたのであろう。

 山には雪が積もるので、八束殿も秋の木の実を集めて、貯えておいて、冬ごもりをしていらっしゃったが、何者かが穴口の藤の蔓を切り払ってしまったので、出ることができず、貯えの木の実を食い尽くして、自分の死を観念しつつ餓死なさったという。

 

 それから幾年かたって、沼田一郡が開け、後閑村に祟りが、たびたびあって、甚だ困ったので、陰陽師を頼んで占ってもらったら、この山の洞穴に骨があり、普通の人の骨ではないからこれをとり出して、神に祭れば祟りは消えるであろうとのことなので、村中の者がさがしたところ見つかって、見ると脛の骨の長さが八つかみある。

 このおもむきを領主に訴えて宮を立て、この白骨を八束脛大明神と崇め祭った。

 

                     以上、『古馬牧村史』より

 

 これがのちに、安倍宗任の残党がここにこもった話など、類似バリエーションが育ち、現代でも、田原芳雄著『尾瀬判官 女菩薩愛し』(文芸社)などの優れた作品のなかでこの舞台が蘇っています。 

 

 聞けばたしかに北毛地域に安倍姓は多い。実際に安倍宗任の後裔につながるという家もあるらしい。渡良瀬川流域には、安倍宗任が都へ護送されるときにこの地に根付いた残党がいると伝わる話もあるようです。

 前九年の役で討ち取られた安倍貞任他3人の首級も、京都へ送られるときは、この上州を通ったと思われます。

 敗れた安倍一族の末裔や臣下は、当然、俘虜の身になったり故郷を追われたりして、各地に散ったことも想像に難くありません。

 もちろん、ほんとうのところはわかりませんが、そのような歴史の移り変わりの場面に、人里近くの崖の上に洞窟があり、のちにそこから人骨が発見されたともなれば、今でこそそれは縄文の遺跡などと言えますが、様々な物語りがそこからうまれることは必至でしょう。

 

  

 

 史実は史実として大事ですが 、土地の地形や環境から生まれる物語りを通じて、その地域を語れること、またその様々な物語りが語り継がれるということは、とても素敵なことです。

 

 この八束脛遺跡に立ち、眼下に月夜野の田畑や山々のすばらしい景色を見れば、

 誰もがいにしえの物語りを想像せずにはいられないものです。

 それほど、ここの景色はすばらしいところです。

 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする