ここ一週間ほどのことですが、渋川市の鳥「ホトトギス」の魅力を伝える三つ折りパンフをつくろうとして、ホトトギスの短歌や俳句を調べていたところ、「不如帰」という言葉の「帰るに如かず」という意味が、「帰りたくない」「帰らないでほしい」の意味とは限らず、「帰りたい」の意味でも使われることもあることを知りました。
ことの始まりは、妻に「ホトトギス」について詠っているいい歌や俳句をリストアップしてくれるように頼んだことからでした。
すると、たくさんある良寛のホトトギスを詠んだ歌のなかで、良寛はホトトギスを「帰るな」とか「帰りたくない」の意味ではなく、望郷の念などの表現で「帰りたい」といった意味をかけて使っているらしいというのです。
桜花 はなの盛りは過ぐれども
次ぎて聞かなむ 山ほととぎす
ほととぎす 汝が鳴く声をなつかしみ
この日くらしつ その山のへに
徳富蘆花の『不如帰』のタイトルの意味をはじめとして「帰るに如かず」は、通常は「帰るには及ばない」の意味でとらえていたのですが、良寛はまったく逆の意味にホトトギスをかけているので、どういったことなのだろうと疑問に思い、漢文の参考書などをいろいろと調べてみました。
もちろん良寛さんは漢字の「不如帰」をつかっているわけではないので、どのような使い方をしてもおかしくはないのですが、「ホトトギス」という言葉からなにを連想するのかを考えることはとても大事なことです。
すると「不如」について高校の漢文の参考書では、
「AはBには及ばない」のほかに
「AよりBのほうがよい」
の意味もあることを妻がみつけました。
なるほど、それならば「帰るほうがよい」という解釈も成り立つ、と一度は納得しかけたのですが、用例でよく使われるの「百聞は一見に如かず」で考えると、「百聞は一見には及ばない」でも「百聞よりも一見のほうがよい」でも矛盾しない同じ意味になり、決して逆の反転した意味にはなりません。
百聞(A)は一見(B)には及ばない
百聞(A)より一見(B)のほうがよい
解釈のどこがどう間違っているのでしょうか。漢文は難しいですね。
どうやら漢文では、Aに対してBを強調することこそが真意で、それが「帰りたい」か「帰りたくない」かは、文脈によって決まるようです。
つまり「一見」や「帰」の字を強調することだけがポイントで、その字を修辞する表現がどうなるかは文章の流れで決めなさいということのようなのです。これは漢文そのものは矛盾を感じず、それを日本語に訳すことからおこる問題なのでしょうか。曖昧な表現が多いのは日本語の際立った特徴かと思っていましたが、どうやらそうとも限らないらしいですね。
以上は、高校の漢文授業上の解釈で、ホトトギスという鳥の名前の歴史からの正しい説明は、以下のサイトを参照してください。
ホトトギスの凋落(3)〜「不如帰」、帰ることが出来なかったのか?
こうした漢文と日本語の違いに気付かせてくれる次のような興味深い逸話があります。
日本に留学した魯迅が、中国で見かけない四書五経などの古典を、日本の学生たちが読み下し文で学び理解していることに驚愕したそうです。
文法があいまいな漢語ではさまざまな文意にとれてしまうため、論語などはそれまでさまざまな注釈が加えられ、さらにその注釈に注釈を付け加えるということが行われ、しかもその注釈もさまざまな解釈があり、わけのわからない状態になっていたのです。
魯迅は、日本語による読み下し文によって、それまで漢文では理解できなかった四書五経の内容をようやく理解できたといいます。
よく日本語は、主語がはっきりしない曖昧さばかりが指摘されますが、意外とその表現の正確さにおいて優れた面があることをこの逸話は私たちに気付かせてくれます。
考えてみると、インド仏教は鳩摩羅什が中国語に翻訳したことで、インド以上に仏教の理解を深めることができ、その漢文の様々な仏教経典は、日本語に置き換えられることで、さらにその理解を深めることができた歴史があるのかもしれません。
話を戻しますが、このことに私たちがこだわるのは、渋川市の鳥としてホトトギスが選ばれた理由が、徳富蘆花の小説「不如帰」の冒頭の大事な場面で伊香保温泉が使われていることによると思われることで、さらにこの小説のストーリーとタイトルからは、伊香保から帰る旅人を白いハンカチを振って別れを惜しむイメージも連想できるからです。
これに「帰りたい」などというイメージが割り込んでしまったら困る。
もっとも、その帰る先も、自分の家なのか、再び伊香保温泉に帰ることなのか、どちらの解釈もあるのですが。
そんなこともあって、いろいろな参考書を妻と真剣に見比べてみたのですが、今の高校生は、こんな説明でよく理解できるものだとつくづく感心させられました。
妻はこのやっかいな説明のことや、私からいろいろ面倒な仕事を頼まれたりして、とうとう機嫌が悪くなってしまいました。
ああ、不如帰。
ほんとうのところは帰りたいの?
帰りたくないの?
どっちよ。
帰りたいのか
帰りたくないのか
はっきりしないなら、もう一泊していけ
ほととぎす
このままでは伊香保温泉のキャッチコピーも
こんなふうになってしまう。
追記
漢文で「不如」の説明をいろいろ見てみましたが下記の説明が一番誤解をうまないよい例に見えました。
「AはBに如かず」」は多く「BはAよりも優れている」という意味にとりがちだが、
優劣に関係なく「Bの方がAよりも程度が激しい」という意味。
『一問一答ハンディスタイル!漢文』 学研
高橋浩樹 著
また、「ホトトギス」は「時鳥」といった表記にも見られるように、春を告げる鳥、時を告げる鳥でもあります。
万葉の語句のひびきでは、そうしたことから「時すぎる」「過ぎる時」などの意味にも饗応します。
春のウグイスなどに比べると、ホトトギスは、来るのが待ちこがれるとともに、その場に長く滞在することなくあっというまに過ぎさってしまうイメージがあります。
先の「帰りたいのか」「帰りたくないのか」の解釈にも、つきまとう悲しさとともに、判断をもたもたしていたならばあっという間に過ぎ去ってしまうかのスピード感が、ホトトギスのイメージにはつきまとっている気がします。
ほととぎす 間しまし置け 汝が鳴けば 我が思ふ心 いたもすべなし
巻15 3785
関連記事 一声は月が啼いたかホトトギス
http://tsukiyono.blog.jp/archives/1077444470.html
→帰りたい
・自分の気持ちが、帰るという行動に及ばない
→帰りたくない
何を比較対象にもってくるかで意味が変わるんですね
ずっと、帰りたいだと思ってました。