晩婚や再婚も増えたせいか、自分が年をとってもSNSで様々な友人たちの子ども生育の様子が日々伝わってきます。
子どもの発達や生育ほど、日々たくさんの喜びや悲しみなど多くのドラマを生むものはありません。
子どものいない私でも、それは十分想像がつき、たとえ他人ごとでもそれが気持ちよく思えてうらやましい限りです。
そんなことを考えていたら、歳をとってもそんな子どもの成育のドラマに負けない喜びを日々感じて行きたいものだという気持ちがこみ上げてきました。
結論から言うと、何事も子どもの生育の姿に勝る喜びはないだろうということなのですが、
それでも、これほど日々の発見、喜びはないと言えるものを私は持っていました。
それは、「読書」です。
行くことのできない熱帯のサバンナの世界や極北の地へでもつれていってくれる。
遥か古代の人物像や、縄文人の暮らしや自然を知ることもできる。
およそ見ることはできないミクロの世界から、何億光年先の遠く宇宙の彼方にまで連れて行ってもくれる。
とろけそうな愛の姿や、準備しなければならない老いの心構えなども知ることができる。
どんなに出口の見えない閉塞した社会でも、明るい光をともしてもくれる。
自分の仕事の行き詰まりを打開する大きな手がかりも与えてくれる。
どうにも自分が前向きになれないときは、現実逃避の手助けさえもしてくれる。
これほど、変幻自在にどんな世界にでも自分を連れて行って、未知の世界のドラマを見せてくれるものは他にない。
もちろん、現実に勝るものはありません。
でも、日々、未知の世界を次から次へと見せてくれるものとしては「読書」に勝るものはありません。
本が見せてくれる世界は、あまりにも多岐にわたり、個人の想像を遥かに超えた世界ばかりです。
日ごろ、本屋の同業者と話していると、どうしても「読書」というと文芸小説を軸とした世界になりがちなことが、私にはいつも引っかかっています。
本の世界は、あまりにも広い。
現実の広さにはかなわないのだけれども。
にもかかわらず、一人の人間では、どんなに幅広い知識や教養を持った人間でさえ太刀打ちできない広大な世界が開けているのです。
その広大な広さを
本屋の世界、出版業界の世界、図書館の世界でも、およそ表現しきれていない。
それは決して蔵書の量の問題ではない。
売場面積の広さの問題でもない。
広大な世界の広さは、1冊の本のなかでも語り尽くせないこともある。
100坪の店より1段の棚にあらわされた世界の方が広大な場合もある。
1,000坪の書店よりも、ひとりの詩人の言葉の方が広いこともある。
そんな世界の広さをなんとか表現したいとの思いで仕事をしているのだけれども、なんとももどかしいばかりです。
深刻な出版不況などという問題ではなく、この本の無限に広がる広大な世界を、
私たちは、とても表現しきれていないのです。
自分が、どんなに本の恩恵を受けていても、それを本屋の業務として活かしきれないのです。
自分の表現力は、とうてい至らないけれども、
流れてくる業界の情報には感謝。
ネット技術でカスタマイズされる情報に感謝。
amazonにも感謝。
どうやって食ってるのか想像つかないような古本屋さんに感謝。
直接会ったら絶対に友達にはなれないような人でも、貴重な情報を提供してくれることに感謝。
太古の昔からの人類の蓄積文化に感謝。
だね。
電子書籍か、紙の本かの問題ではありません。
紙せあろうが、デジタルであろうが、この広大な創造の世界は、とても表現しきれないものがあるのです。
10年くらい前から、本のテーマ館といったイメージで特定の切り込み口で時代の文脈で表現する試みを重ねてきましたが、最近になってようやく図書館と書店とテーマライブラリーと現実の運動との一体化への道筋が見えて来たような気がします。
子どもの成長には、確かに驚くべきことがあふれています。
でも、それに負けないほどの目の前で起きている社会の現実、
日々、姿を変えて命を受け継ぐ自然の姿、
さらには自分自身の心の変化。
子どもたちの輝きに負けない数多の現実を感じて観れる幸せを、もっと大切にしたいものです。
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