以前にこのブログに資料として、三峰神社縁起を載せたことがあります。
そこで、三十六歌仙のひとりである凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)がどのような縁で、三峰山の河内神社に関連づくことになったのかが書かれています。
それをみたときは、河内神社と凡河内の名前のこじつけ話とばかり思っていたのですが、月夜野という土地のご縁からみると、これは必ずしもただのこじつけ話とは言いがたい、なかなか良く出来た話であるようにも思えてきます。
凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね)
まず第一には、凡河内躬恒が村上帝の歌を書き損じた罪でこの地へ流されたことです。
当初は遠い都からこんなところに来るなど、増してやこの無名の地がわざわざ選ばれることなどまずありえないと考えていましたが、中世の都では、実に多くの都人(天皇から貴族・役人)たちが、なんだかんだの理由をつけられては日本中の僻地にとばされていました。
それは実際の戦闘や勢力争いに破れた者に限らず、天皇や権限のあるものからあらぬ疑いをかけられた者や、台頭する新勢力である武士ににらまれたもの、あるいは実際に不祥事などの罪を犯したものなど、武士の切腹が定着する前の時代であったこともあり、ことある毎に多くの都人が遠島や僻地へとばされていたのです。
考えてみると、投獄や刑死などより最も一般的な刑の姿が流罪であったのかもしれません。
とすると、凡河内躬恒がこの月夜野の三峰山麓に幽閉された話など、たとえそれが史実としては疑わしいとしても決して突飛な話しではなく、上毛野国の地理的な都とのつながりからしても十分ありうることであったと思われます。
第二には、その凡河内躬恒という歌人そのものが、紀貫之などとともに古今和歌集選者の中心的存在であり、古今集には58首もはいる三十六歌仙のなかでも特別な存在であることです。それだけに月をみごとに詠み語れる歌人でもあったということです。
凡河内躬恒の逸話として『大和物語』一三二段に、醍醐天皇から「なぜ月を弓張というのか」と問われ、即興で
「照る月をゆみ張としもいふことは山の端さして入(射)ればなりけり」
照っている月を弓張というのは、山の稜線に向かって矢を射るように、月が沈んでいくからです)
と応じた話があります。
まるで「月夜野百景」の一場面そのものです。
雪月花、花鳥風月をうたう優れた歌人なら「月」ネタに欠くことはありません。
多くの歌人が月を題材にしていますが、まさに月夜野の地に選ばれるにふさわしい歌人が凡河内躬恒であるように思えてなりません。
月夜にはそれとも見えず梅の花香をたづねてぞ知るべかりける (古今40)
五月雨のたそかれ時の月かげのおぼろけにやはわれ人を待つ (玉葉1397)
見る人にいかにせよとか月影のまだ宵のまに高くなりゆく (玉葉2158)
ちなみに『百人一首』にのる凡河内躬恒の歌は、
29 心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
源順(みなもとのしたごう)
第三に、月夜野という地名のいわれです。
地元では、都から来たえらいお坊さんが、この地を通りかかったときに空を見上げて
「おぉ~、いい月よのぉ~」と言ったことが「月夜野」という地名のはじまりだとも言われてますが、
文献に記述されたものでは、偉い坊さんではなくて、
これも三十六歌仙のひとり源順(みなもとのしたごう)が東国巡業の折(平安時代、天暦10(956)年の仲秋の夜とも言われてます)に、三峰山からのぼる月をみて「おぉ~、いい月よのぉ~」と深く感銘して歌を詠んだといわれます。
ところが、そもそも源順が東国巡業をしたという記録自体、どこにもみあたりません。にもかかわらず、そんな話しが生まれるのももっともな背景が、源順の経歴のなかにはあります。
* 「順」と書いて(したごう)と読むことに馴れるには、はじめは誰もが時間のかかることと思います。
そこで詠んだ歌がどの歌であったのかはわかりませんが、
源順の詠んだ月の歌として、
水のおもに照る月なみをかぞふれば今宵ぞ秋のも中なりける(拾遺171)
これまたこの地にもぴったりの歌ともいえます。
この源順なる人は、大変な才人として知られていたらしく、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められているそうです。
源順がかかわった功績のには次のようなものもあります。
まず第一にあげられるのは、日本初の百科事典ともいえる『倭名類聚鈔』の編纂をしたことです。
他の記事で触れることになると思いますが、群馬県利根郡の地名が初めて文献上で明記されたのがこの 『倭名類聚鈔』です。
それと、それまですべて漢字で書かれていたために一般の人は縁がなかった『万葉集』を、村上天皇が源順以下5人の学者に読み解きを命じたことです。順たちはおよそ20年の歳月をかけて万葉集の大部分に訓をほどこしました。こうして万葉集はようやく日の目を見、一般に流布するようになりました。
また『うつほ物語』、『落窪物語』の作者にも擬せられ、なんと『竹取物語』の作者説の一人にも挙げられるほどの人物です。
もしも、源順がほんとうに『竹取物語』の作者だとしたら、藤原氏批判を含んだといわれるこの竹取物語の作者が、一層、アマテラス=太陽偏重の藤原氏に対する「反藤原コード」としての「月」を重視していたこともありうるのではないかと思われてなりません。
『万葉集』の編纂中心人物である大伴家持や橘諸兄が、藤原氏の独裁下で苦労したがゆえに、万葉集全体を貫いて月を多く採取しているのも、同様の時代背景になっていると考えられないこともありません。
したがって、ここで月の歌人たちを月夜野で引き立てることは、この国のかたち根幹を問い返す意味もあるのではないかとさえ言えます。
関連ページ「源順と『和名類聚抄』と名胡桃の地名由来」
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/bb41ba4491cc1079dfff1b08defb80e3
史実の真偽はなんともわかりませんが、
三十六歌仙のうち二人もが、この地を特定した縁を結んでおり、
しかもそれが月にまつわる歌で深くつながっているということです。
もしも史実でないのなら、引き出される歌人は小野小町でも紀貫之でも誰でもよかったはずです。
たとえそれが、つくられた説話であったとしても、なぜ源順がこんな月夜野の地まで来る理由があったのかと疑えば、尊敬する凡河内躬恒を慕い、幽閉されていたとされるこの月夜野を訪ねてきたのではないかというストーリーも、聖徳太子や弘法大師、あるいは義経や木曾義仲伝説以上に、現実味おある物語となりうるのではないでしょうか。
こうしたことから三峰神社縁起などを通じて想像されるイメージは、まさにお能の世界です。
もしその物語を語るとしたら・・・
まず源順がワキとして登場。
源順が晩年になってから、大歌人として一世代先輩にあたる凡河内躬恒を偲んで、幽閉されていた地を探し遥々東国まで訪ねてくる。
ある地で山にかかる美しい月をみて思わず歌を詠んでいると
その歌につられてシテ、凡河内躬恒の妻である花萩が登場。
そこで、花萩(シテ)が躬恒を慕ってこの地まで来たが、とうとう会うことかなわなかったわが身の上を語る。
ただ、ひたすらに吾夫(つま)の身を思ふのみぞ。
逢えぬは死地に赴くよりも悲しきこと。
ひと目なりとも見ましきものを・・・
いかにせん哀しくばかり身をも浮く
ささかに見ゆる吾夫を慕へば
花萩に対して躬恒も今生の別れと歌を返した
秋霧の晴るる時なき心には
立ち居のそらも思ほえなくに
世を捨てて山に入る人山にても
憂きときはいづちゆくらむ
花萩(シテ)は、傷心の身を引きずりながら近くの寺に身を寄せ、夫の戒めを解く二十一夜の祈りに入ったが、遠路の旅の疲れと逢えぬ傷心の思いから満願の日を待たずにここで果てたわが身の上を語ると姿を消す。
目の前に現れた花萩が夢かうつつかわからぬまま源順は、しばし記憶をたどりその場にたたずむ。
するとそこに小さな祠があることに気づく。
この場所こそが、躬恒と花萩が果てた地であることを知り源順は、花萩が果たせなかった二十一夜の祈りを遂げて二人をともに供養する。
そこで歌をのこして去りゆく。
三峰の麓(ふもと)の庵(いほ)は知らねども
語りし継げばいにしへ思ほゆ
「み吉野の滝の白波知らねども語りし継げばいにしへ思ほゆ」 (万葉集 巻三―313)
・・・といった感じでしょうか。
三峰神社の舞台
ここでいつか上演できたら素敵ですね。
もちろん、ここは歌舞伎や浄瑠璃用の横長舞台で、橋懸りがあったりする
方形のお能の舞台ではありませんが、
それでも、いつかこの地の物語をここで上演できたら素晴らしいことと思います。
名胡桃城址での上演でも素敵ですね。
だからといって、必ずしもこの地で特別にお能や和歌が盛んになったなどという特別な歴史があるわけでもありませんが、一定の時代に於いては、現代では想像もつかないくらい庶民の間で、歌舞伎や浄瑠璃が普及定着していたように、歌の世界も浸透していたのは事実であると思います。。
月を愛でて鑑賞するのに、これほど恵まれた歴史物語が背景にある土地が、そうどこにでもあるものではないということだけは十分頷けるのではないでしょうか。
よく誤解される伝説としての月夜野の地名由来とは区別した、史実としての由来はどうなのかということについては、以下のページにまとめてみました。
「月夜野」地名の由来と風土①
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/0ddc774c9db1c7f615a94740117f851b
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