佐野眞一だったか、最近どこかで読んだ記事のなかにあった表現。
昔の炭鉱労働者には、どんなに厳しい労働環境のなかでも、歌があった。
ところが、今の原発労働者には、歌は生まれない。
この表現を見て、前にも同じようなことは書いたことがありますが、
心のなかに音楽が流れなていないような状態になると、
それが、たとえどんなに「正しい」と思うようなことをしていても
決してうまくはいかない。
そんなことを改めて思ったので、
一部のプロフィール写真を変えました。
随分長い間、本のなかに頭突っ込んでいたので
もう息が苦しくなった
最近、ピアノもギターもなかなか弾かなくなってしまったけど、
その気になればいつでも弾ける環境がせっかくあるのだから、
日常のなかになんとかもっと位置づけたいと思った次第です。
昔の炭鉱労働者には、どんなに厳しい労働環境のなかでも、歌があった。
ところが、今の原発労働者には、歌は生まれない。
この表現を見て、前にも同じようなことは書いたことがありますが、
心のなかに音楽が流れなていないような状態になると、
それが、たとえどんなに「正しい」と思うようなことをしていても
決してうまくはいかない。
そんなことを改めて思ったので、
一部のプロフィール写真を変えました。
随分長い間、本のなかに頭突っ込んでいたので
もう息が苦しくなった
最近、ピアノもギターもなかなか弾かなくなってしまったけど、
その気になればいつでも弾ける環境がせっかくあるのだから、
日常のなかになんとかもっと位置づけたいと思った次第です。
最近、姉が実家のかなり古いおんぼろピアノをわざわざ調律師を頼んで直してくれた。
2階には、私の結構音質のいい電子ピアノがあるけど、散らかった私の部屋に入る気はしないらしい。
今いるマンションにもキーボードはあるけど、
店の2階のヤマハ音楽教室に入れば立派な防音室のグランドピアノがある。
ノートパソコンにMIDIキーボードつないでシンセにもできる。
決して時間がないわけではない。
心にゆとりのあるときのサウンドではなく、
厳しい環境の時こその音楽だ。
それには、ギターよりも
力任せに弾けるピアノがいい。
よって、
今日は、早く帰る。
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