かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

人類が発明した偉大なる方便「貨幣(お金)」

2014年01月11日 | 無償の労働、贈与とお金

過去に何度も話してきたことですが、検索しても出てこないので、

改めてここに、まとめて書いてみることにします。

 

それを「貨幣」と表現するのがよいか、「お金」と表現するのがよいか、迷うところですが、

「お金」とは、

人類が発明した偉大なる“方便”である

と思うのです。

 

それは、そもそも交換不能な「異質」なものを「等質」なものに置き換える魔法であるからです。

 

経済学の最もやっかいな基礎理論の部分なので、わたしがうまく説明することなど無理ですが、

社会のあり方や意識を大きく規定している原理でもあるので、経済学の基本説明としてではなく、

社会通念のひとつの解釈として語らせていただきます。

 

20世紀は、この異質なものを等質なものに置き換える技術が高度に発達した時代でした。

それは、「異質性」をとことん排除することで、どんなものでも、

より交換しやすくする社会を実現するものでした。

つまり、あらゆるものの価値=「質」を「量」=貨幣に置き換えることです。

 

これは、社会の社会たるゆえんの「交換」を前提とする限り、なんら間違ったことではありません。

 

ところが、より交換しやすいことばかりを追い求めるあまり、いつのまにか

「量」=貨幣の方が「質」=固有の価値(使用価値)よりも大きな力をもつようになってしまいました。

 

このことは同時に、「より交換しやすいこと」が「価値の低下」をもたらす側面もともないます。

価値の低下を補うためには、その固有の価値を上げることよりも、

より多くの「量」を交換することによってしか補えない社会が加速してしましました。

 

これは私たちには、困ったことのように映りますが、歴史の必然でもあり、

資本主義云々の評価の問題以前の、避けることのできない流れであったと思います。

 

ところが21世紀に入ってから私たちが目にする現実のなかには、

同じ原理の社会のなかにいながら、

より交換しにくいことでこそ価値が増す社会、

あるいは、交換しにくさを意図的に保持する社会が

徐々に目立つようになってきました。

 

商売は、より多くの人が来てこそ儲かるもの、

より人通りの多い好立地でこそ、大きな利益が保証されるものと言われてきましたが、

最近話題になる人気の温泉地や有名レストランなどでは、

あえて立地条件の悪いまま、

行きにくいところであること、

あるいは人通りの少ないことろに出店することなどが、

お店の付加価値を高め繁盛する条件になっていたりしているのです。

 

商品の場合でも、あえて売るために、どこでも手に入ることよりも、

「ここでしか手に入らない」ことを保持することで、

有名ブランドをつくり人気商品になるといった事例がとても増えてきています。

 

グローバル化そのものは、社会の発展では避けられない事実です。

問題は、グローバル化一辺倒で、ローカルが押しつぶされることです。

これからは、ローカルに徹底することでこそ、

真のグローバル化が実現できる社会がはじまるということです。

 

ここにきてようやく、

「質」は「量」によっておきかえられることが、

「質」は「量」によってしか表現されない時代に暴走した20世紀が終わり、

交換を前提にする限り「量」に置き換えることは不可避ですが、

「量」に置き換えるにしても、いかに「質」を保持するか、

あるいは「量」に還元できない「質」をいかに表現するかが問われる時代になりはじめたのです。

 

もちろん、量と質は不可分の関係なので、

決してどちらかに寄った方が正しいというわけではありません。

大事なのは、あまりにも、すべてのものが

より「交換しやすく」の方向にばかり暴走した時代が終わりはじめたということです。

 

このごとのはじめの大前提ですが、

そもそも「価値」とは、主観的なものであったはずです。

「価値」とは、固有のものであったはずです。

 

それが、いつのまにかその「主観的価値」すらも、

「量」=「お金」によってしか、 表現できないかの社会になってしまったのです。

 

今世紀に入ってようやく、安易に資本主義経済の否定ということではなく、

社会の経済発展の基本理論として、資本主義経済発展の必然としても、

ただ一方向に「質」を「量」に置き換える方向のみ「交換しやすさ」だけを追求する経済ではなく、

交換の前提である固有の価値=「質」をいかに「量」だけに還元されずに保持して、

スムーズな交換社会をつくりだせるかが問える時代になりはじめました。

 

わたしが、「お金」は、人類が発明した偉大なる方便である

というのは、そもそも「異質なもの」を「等質なもの」に置き換えることなど

原理上はありえないことを

「お金」という魔法が「方便」としてそれを為しているにすぎないので、

その矛盾は根底に常に存在し続けている上での話だということを確認、表現したものです。

 

言葉では、方便としてしか説明することのできない矛盾が存在する限り、

時代は、様々なゆがんだかたちでそれを調整し続けるもので、

これは決して数学的にはすっきりと解決することできない課題だと思うのです。

 

そもそも「価値」とは、「主観」的なもの

という当たり前の感覚を取り戻す人間社会がこれからようやくはじまるのだと思います。

 

わたしの関連ページ、かみつけの国 本のテーマ館 内

「質(価値)」は「量」によってしか表現しえないのだろうか。

http://kamituke.web.fc2.com/page128.html

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 當麻寺 梅原猛に学ぶ世阿弥... | トップ | 昭和の時代区分(メモ) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

無償の労働、贈与とお金」カテゴリの最新記事