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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

古代朝鮮と日本の密接度と距離感

2009年05月08日 | 歴史、過去の語り方
古代史をみていると、ややもするとなにからなにまで渡来人がつくった話になるばかりでなく、歴史上の有名人が皆、渡来人だったということにもなってします。

今月の新刊書では、
林順治 著 『応神=ヤマトタケルは朝鮮人だった』河出書房新社
なんていう本も出ました。

いったいどこまでがほんとうなのか、素人にはまったく見当もつかないものですが、少なくとも近・現代の日本と韓国や中国、日本とアメリカなどの関係よりもずっと密接な関係であったであろうことは想像がつきます。

近世日本が、オランダなどから多くの技術を吸収し、幕末・明治期にイギリス・フランス・ドイツから多くを学び、戦後日本がアメリカから入ってくるものを無心に取り入れていったどれと比較しても、古代日本における朝鮮の影響力の強さはそれらを上回っているのではないでしょうか。

そもそも、渡来人の大半を占める新羅系移民、百済系移民にとって日本は、あこがれの地であったらしいのです。
したがって戦乱の時代の同じ亡命移民であっても、エリート官僚や技術者がこぞって日本にやってきて本国には優秀な人材はいなくなってしまったのではないかとの推論もあるほどです。

5,6世紀ころの日本の人口は、諸説あるものの大体は400万から600万人くらいとみられています。
そのうち都などの都市部にどのくらいの人口が集中していたのかについては、平城京の場合、多く見て20万人、少ない見解で5から6万人といったところらしい。

そのうち下級役人の数は1~2万人、
とすると上級役人の数百から千人くらいの一定数を渡来人が占めたというだけで、その影響力の大きさは想像がつく。
というよりも、経験のない知識や文化をすべて持ち込んでくれた側であることを考えれば、数の比率の問題ではなく、抜擢登用はあたりまえの環境であったことだろう。

でも、渡来人が来る以前の日本人がいなかったわけではない。
当然、新しいものに馴染めない、受け入れない抵抗勢力はあったことだろうと思われます。
そんな視点から物部氏というのは、とても興味深い存在です。
(お勧め本  関裕二『物部氏の正体』新潮文庫)

ヤマト政権内部での覇権争いだけでなく、地方豪族との闘いもすべて渡来人がからんでいるといってもよいほどだ。
前に、物部氏と渡来人二つを祀る貫前神社の珍しい下り参道のことを書きましたが、朝鮮に近い北九州や大和中央のみならず、この東の果ての上毛野国にまで、渡来人は大挙進出してきています。

まったくもって想像しがたいのは、近代以降、他国との関係は、常に戦争したら負けるかもしれない、あるいは負けてしまった列強、大国の影響下にあったといえるのに、古代日本と朝鮮の関係は、決して日本を侵略してきた渡来人が国土全域を席巻したわけではなく、どこまでほんとうかはわからないが、その多くは亡命して流れてきた人々によって関係がつくられてきたということです。

これが歴史上稀にみる面白い関係なのか、どこか歴史の見方が間違っているのか、わたしにはわかりません。

でもそのまま現代に通じる問題であり、ナショナルなものとインターナショナルなものの意味についてつくづく考えさせられるものです。
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