花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

一枚の写真 シーズン2 ① 答

2025年01月07日 | レモン色の町

写真は、昭和9年の納屋運河の様子です。

右が開栄橋で正面の建物は逓信省用地に建てられた郵便局です。明治4年、郵便創業の布告が出され、東海道各宿駅の伝馬所に郵便取扱所が併設されました。四日市では宿場内の南町に設置され、明治16年になると浜町へ、明治21年には開栄橋西詰南角(写真の位置)に新築・移転しています。当時の一等地を求めて移動しています。

明治44年

明治36年の開栄橋風景 橋を西へ渡った左に建つ郵便局

明治36年になると電話局は、四日市郵便局に合併されて電話分室となりました。

当時 諏訪新道の道幅は狭かった(大正14年)

大正14年には、諏訪新道に四日市郵便局電話分室が新築移転します。(水谷宜夫氏 提供)

大正15年

下の写真は、昭和10年の沖ノ島町の四日市郵便局の写真です。(四日市の100年より)

昭和18年・沖ノ島町郵便局前でのラジオ体操の様子(四日市の100年より)

戦争が激しくなる頃です

昭和20年には四日市大空襲で郵便局も被災します。

昭和29年、戦後、四日市電報電話局舎完成。

昭和31年・名古屋~四日市間に直通電話が開通しました。

現在、位置こそ変わりませんが 郵便局と電報電話局は隣接して二つの建物になっております。

 


一枚の写真 シーズン2 ① 問

2025年01月06日 | レモン色の町

第1問は少しやさしい問題です。対岸中央の建物がヒントです。

場所が分かる方は いつ頃か?お分かりいただけますか?「目で見る四日市の100年」より


昭和の時代へタイムスリップ

2025年01月05日 | レモン色の町

1月3日 孫が川崎から来るので、親族一同みんなで出かけようということになった。で、「集合場所の希望があるか?」と孫に尋ねると、“養老ランド”をご所望だった。

少し雲が多い。先に到着したのか、孫はまだ来ていないので先に入園した。

1名様600円 安い!が、園内に入って思った「これは小さい子がいないと 耐えられない!」

待ちくたびれたので、入り口横のレストラン“ひまわり”へ入る。メニューがうれしい。カレーライスとラーメン、お子様ランチとフライ定食。あと、クリームソーダと瓶ビール。懐かしさの定番である。これに丼物が並ぶと昭和時代の食堂(四日市諏訪劇場横の万惣)だ。

入口にこんなポップが貼ってあった。

遠くに見える厨房を覗くと、写真の伯父さんが忙しそうに駆けずり回っていた。フライを揚げる、カレーを皿に盛る、火加減をする、午後のイベント“餅つき”の準備をする。そういえば午前11時ころは、比較的閑散としていたのが、お昼を過ぎると結構な人出になっていた。食堂内も賑わっている。外人さんもいた。

乗り物は、すべて待ち時間ゼロ。さすがにお正月だけあって各乗り物には係員さんが配置されていた。少し止まってはまた動き出すが、お客様は1人か1組。でも気持ちよく稼働してくれる。電気代は大丈夫かといらぬお世話を思う。係員は、女性かお爺さんで構成されていて、忙しく動いてみえるのを眺めているとホノボノとしてくる。

昔の遊園地風景がここではまだ存在している。小さい子供はみんな大満足の様子だった。(下の文字をクリックしてね)

係員すら見つからない。あまりにもガラガラすぎる遊園地【養老ランド】がヤバすぎた!

「昭和の消えた仕事図鑑」から、こんな言葉を思い出した。

マニュアルにとらわれた無機質な人と人との関係ではなく、仕事を通してぬくもりや感情を交換する関係をベースに、昭和の仕事は成り立っていた。それは仕事にかかわる人もお客も孤独ではなかったことを意味する。今より不便で、効率は悪かったが、そこには人がいた。人を介して仕事が成立していた。だから人を大事にした。人を大事にする精神は、同じようにモノも大事にした。昭和を生きた人達はおしなべて「勿体ない」という言葉を使った。品物を大事に使い、故障すれば修理して使い、簡単に新しいものと替えることをしなった。そこに昭和を支える精神があったといえるだろう。 原書房刊

寂れつつある商店街の生き残る知恵が、ここにありそうな気がした。


鵜森神社のお正月風景

2025年01月04日 | レモン色の町

1日の夜 ライトアップされた鵜の森神社の風景です

本殿へ進みます

2日朝の本殿

遥拝の碑です お伊勢さんに向かって二拝ニ拍手一拝 チーン

水谷百碩氏の「鵜之森春景」・鵜の森神社は浜田城跡にあり、四日市の発展の基礎を築いた浜田一族を祀る神社です。神社の森の鬱蒼としてなかに桜の花が咲き、周囲を黄色い菜の花と紫路のレンゲが埋め尽くしています、今では考えられないような穏やかな光景がここには描かれています。四日市博物館刊:知られざる四日市の面影 より

出口對石氏の「鵜森の晩秋」・鬱蒼と茂る木々の中にある鵜森神社と、その周辺の畑と田が入り混じった風景を描いています。田で収穫された稲の藁が積まれ、畑では農作業をする人が描かれています。季節が秋であることから、百石の絵に比べるとさびしい風景にも見えます。

新春 巻末特別付録:稲盛和夫著“生き方”より

「プラス方向」の考え方とは「よい心」を持てということ・・・

それは、つねに前向きで建設的であること。感謝の心を持ち、みんなと一緒に歩もうという協調性を有していること。明るく肯定的であること。善意に満ち、思いやりがあり、やさしい心を持っていること。努力を惜しまないこと。足るを知り、利己的でなく、強欲ではないことなどです。


明けましておめでとうございます。

2025年01月01日 | レモン色の町

諏訪神社鳥居前

謹んで新年のお祝いを申し上げます。

旧年中は 当稚拙ブログをご覧いただき まことに有難うございました。もう少し続けようかと考えておりますので、本年もどうかよろしくお願い申し上げます。一日は11時過ぎに諏訪神社へ撮影に参りました。たくさんの人出で驚きました。何かと不穏な情勢の今日この頃でゴザイマス。どうかよい年になりますよう、皆様のご多幸を 心よりお祈り申し上げます。

多くの人が参拝に訪れます

社務所前ではおみくじが行われており 長蛇の列が出来ていました

本殿前の様子です この人出は久方ぶりです

帰りの鳥居前で、本町まちかど博物館の水谷宜夫様とお会いできました。感謝申し上げます。

 


一枚の写真 ⑯ 解決編

2024年12月30日 | レモン色の町

「答えっ 日本海員掖済会でーす」

「正解でーす。数年前、明治40年5月の地図を見た時、稲葉翁さんの旧四日市港の北側に錨のマークがありました。凡例には“掖済会”とあります」

「早速調べてみました。『腋(わき)から手を添えるという意味で、明治13年 前島密(ひそか)が、船員の医療や宿泊施設として立ち上げたのが掖済会である。』明治期までは海水浴というレジャーはなくて、海水に浸かる行為は医療用とされていました。四日市では、三滝川口の南岸から旧四日市港の防波堤にかけての砂浜が海水浴場として開かれた場所で、明治41年、この浜に海員掖済会の建物が出来たことから、市民は掖済会前の海水浴場と呼んで親しんでいた、とありました。

「名古屋に掖済会病院という名前で現在も存在しています」

「へえーっ」

「数年前、納屋プラザで航空写真を見せていただきました。大正13年10月12日撮影とあります。港地区連合自治会蝶さんが所有されていたもので、納屋プラザに展示してあったのです。」

「記録には、『大正6年5月、米国の飛行家アートスミスが、旧港とこの海岸を中心に曲芸飛行があり、のちに海軍の水上機が離水着水を演技したのもこの海水浴場の砂浜であった。』なやプラザで見せていただいた航空写真では、二枚羽の飛行機が浜辺に着水しており、多くの人が集まっていました。海員掖済会の洋風建物の隣には、船大工の造船所が望めます。この時気付いたのですが、掖済会の西側が真っ黒になっています。これは牧場です。そこでは乳牛が飼育されていました。牛乳は体に良いということが周知され始めた時代でした。」

明治44年の地図より この時には「掖済会」と書かれています

「大正5年に四日市でペスト騒動がありましたね。この時も掖済会は検疫所として大活躍していますね。」(文字をクリックしてご覧ください)

大正ペスト騒動① - 花の四日市スワマエ商店街

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2021年8月2日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

「岡野先生が中心となって編集された“旧四日市を語る”には、金津さんがおじさんのリヤカーで掖済会前の浜に“軍艦由良”の見学に来ています。大変興味深く読ませていただいたので、ブログに掲載させていただきました。」

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『大正後期になるとここは旧港の防波堤で潮流が澱むためか、ヘドロが多くなって海水浴に適さなくなった。』とありましたが、石灰工場の影響もあったのではと思われます。」

「掖済会周辺は、歴史的に見ても大変 興味深い地域ですね。」

「今年の2月、金津さんの足跡の潤田から掖済会までを辿ってみました。重複しますが、よろしければご覧ください」

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一枚の写真 ⑯ 問題編

2024年12月29日 | レモン色の町

四日市市立博物館発行 写された四日市 より

ヒントなし!伊勢湾に浮かぶ 帆船に人が立つ 左の建物 なーんだ?

<押し付けユーチューブ>リカルド・サントス楽団の 真珠とり これまた懐かしい!

Bing 動画


一枚の写真 ⑮ 解決編

2024年12月28日 | レモン色の町

辻俊文さんが撮った写真 昭和32年11月10日 19時頃か 当店西にあった 北京飯店  テイクアウトのまんとう しゅうまい の看板 ここは二階にも客席があった。西隣は 笹井屋 奥はレストランだ

 昭和43年のゼンリン地図

下総人様御用達の自作マップ

我が家の横で 猫を抱く自分 この奥左に早川薬局 その奥 西隣が北京飯店と笹井屋と並ぶ

当店前から北 諏訪神社に向かってのスワマエ通り

31年夏まつりのスワマエ通り


一枚の写真 ⑮ 問題編

2024年12月27日 | レモン色の町

ここは昭和何年の何月何日の何処でしょう?ヒントは看板に、あるが、よう分わからん!


一枚の写真 ⑭ 解決編

2024年12月25日 | レモン色の町

明治29年設立の 四日市商業学校です。明治49年にドイツ人技師の設計で浜一色に新校舎が建設されました。空襲に遭い その後、塩浜の第二海軍燃料所跡に移転、現在は尾平町の高台に建つ四日市商業高校が現在の姿です。<市立商業学校>で合っているのか?

市立商業学校 があった - 花の四日市スワマエ商店街

真ん中に三滝川 右に商業学校が位置します その上あるのが 天聖院さんです 明治44年の地図

現在の天聖院さん

天聖院さんの裏庭にある空襲で焼けた木

ついでに 戦後商業高校が移転していた 第二海軍燃料廠のことも紹介させていただきます。

四日市漫歩マップ⑯第二海軍燃料廠 - 花のマエ商店街