広重の描いた三重川の図は?いったいぜんたい 何処だろう?
広重四日市の三重川
「四日市市史」の“ふるさと点描”に岡野繁松氏が「広重の描く四日市を歩く」と題して安藤広重の三重川が何処の風景なのかを推理している。
どうして広重は、四日市宿の宿場の様子を選ばずに、野分吹く葦の茂る場所を題材にしたのだろうか?ここで岡野氏は四カ所を提案して推理してみえる。
・三瀧橋説:文化三年(1806)に描かれた“東海道分間延絵図”によると三重川は 川幅52間あり両側は洪水対策用の土手が築いてあった。となり広重の絵に描かれた小さな板橋ではない。
開栄橋 下が 新栄橋
・開栄橋説:稚拙ブログで推理してきた(但し 開栄橋北の新栄橋としました)ように構図的には広重の絵と重なってくる。このページでは開栄橋は湊橋、新橋、新栄橋と称していたこともある、となっている。
右に流れるのが 鹿化川
・長田(町田)橋説:昭和11年の伊勢新聞に、市内の考証家 福山順一氏が、古書(安政2年の針山図案)から長田橋付近であると発表している。
「天保3年(1832)夏8月、幕府の「御馬献上」に随行して東海道を上ってきた広重は、四日市宿に絵の題材を見出すことができず、日永村までやって来た。ここは伊勢参宮道との分岐点にあたり、茶店(まんじゅう屋)も出て賑わいがあった。
追分の饅頭屋
この日永村の入り口に長田川(ちょうだがわ)が流れていた。この小さな川は源平時代に尾張山田から遁れてきた長田(ちょうだ)一族が移り住んだ長田屋敷に源を発する小川である。そこに架かる小さな橋が長田橋だった。広重はこの川の堤に腰を据えて“あの絵”を描いた」とあった。
しかし、尾張猿投(さなぐ)神社所蔵の文献では“長田川が稲穂の間を流れている”とのくだりがあり、広重の絵からはどう見ても葦の茂る浜の景である。
歌川貞広の三重川
- 長田橋説は続く。「後年、弟子の歌川芳重が師匠の旅の跡をたどったときに、この橋の印象を残している。「四日市浜田を、日永に出る境に、今もある、ささやかな流れ、その小川に架かった、土橋に付けられた名が長田橋、ここは風の強いところで、橋端には、画の中に見える柳が、明治の頃まであったと、老人は話してくれた。ここならば少し離れて海も見え、船の帆柱も眺めることができる。一行(御馬献上)が休憩の時間にひとり離れて、この長田橋を写生したものであろう」 後半に つづく