花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

Oさんの葬儀の参列して

2008年01月16日 | 四日市商店連合会です
今日は、商店連合会会員であるOさんのお母さんの葬儀があった。
儀式は天理教方式で行なわれ、大変珍しいものだった。
5名の雅楽演奏と、3名の神官で行われた。
式場では、神官によりお母さんの生い立ちが述べられる。
神道では、二拝二拍手一拝が一般だが、天理教では、二拝・四拍手・一拝・四拍手・一拝だ。みなさんどうするか興味を持ってみていたが、天理教にあわせてお参りしてみえた。
お母さんを亡くされお気の毒だが、残酷な言い方をすれば、Oさんはこれから、奥さんの看病に集中できるのではと思う。
奥さんが、病の床について1年近く経つか・・・。

奈良県天理市は天理教によってできた都市だ。5階6階建ての瓦葺の建物が並び、壮観を極める。
本部の神殿は壮大なもので、本殿を東西南北につなぐ3157畳の広い礼拝場の中は「ひのきしん」と呼ばれる信者の奉仕活動で清掃が行き届いている。
天理教立教の日は、1838年10月26日。中山みきが親神様となった日だ。
この日、みきの長男が足の病にかかり、中山家では修験道を呼んで祈祷が行なわれた。そのとき巫女の代理をつとめたみきに神が降りて、世界中の人を救うために、みきの体を神の社として借りたいとの啓示が下った。
みきは、こうして周辺の地域で「お産の神様」として迷信を改め、妊婦の苦痛を和らげる為の活動が始まる。
みきの信仰が広がるにつれ、他の地域信仰と対立するようになった。
長男 秀司は天理教を確立するため、京都の神社総元締めである吉田家に入門、神道系の新教を作り上げた。
明治・大正・昭和と時が移り、天理教は、天皇制に対立するものと捉えられ警察の迫害を受けるようになる。
極寒の中での拘留で体を痛めたためか、高齢のみきは1887年、90歳で亡くなる。
激しい迫害を経て、後継者の飯振伊蔵は「天理人道を明らかにすべき事」の教則に基づき天理教と命名、神道本局直轄一等教会の公認を得て独立を果たした。
以上が、客観的に見た天理教の歴史だ。
幻冬舎新書「日本の10大新宗教」島田裕巳著より
コメント (7)
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