花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

目からウロコの修験道

2008年01月30日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
挙手動足(きょしゅどうそく)、皆(み)なこれ密印(みっちん)
舌相言説(ぜっそうごんぜつ)。皆な自然(じねん)の仏(ほとけ)なり。
何ぞ作物(さぶつ)あらんや。
                役行者(えんのぎょうじゃ)
人の動作も言葉も、そのまま仏である。
どうして、仏に成るということがあろうか。

日、Oさんの葬儀が天理教で行なわれたことを書いた。
天理教の開祖である中山みきさんは、修験道(しゅげんどう)の行者によって神のお告げが下り、親神様になったことを話した。
修験道の行者、山伏というと、時代劇で悪代官と組んで祈祷を行ない、お殿様を呪い殺すというイメージがある。いわば昔の超能力者である。
伏は明治時代、弾圧に合って崩壊または真言宗や天台宗に吸収され分散した。悪いイメージは以来、作られたものらしい。
たして山伏は超能力者だったのか?
図書館で借りてきた「目からウロコの修験道」伊矢野美峰 著
          
古から人は自然に畏敬の念を抱いてきた。その古代信仰に、道教や陰陽五行、仏教が加わって今日の修験道が出来た。
誰もが仏である。それを修行によって再確認するのが修験道、つまり修験経ではなくて、道なのであるといっている。
今まで持っていた怪しげなイメージとは違ってきた。
験道で行なわれる加持祈祷とは「私たちの信の心に、仏の大悲を受けていることと、それを信ずることにより、仏の力を自覚すること」とある。
いたって、真っ当な事をやっているようだ。
して、現代の超能力者に、こう警告している。
祈祷は仏の働きとして行なわれる。ところが、祈祷は、自分の力を放射するとか、念を送るとか考える人が多い。それだと霊力の勝ち負けや、霊験を受けた受けないなどの相対した考えが出てくる。俺の念力はよく効くぞとか、俺は修行が足りないとか自分が迷うことになり、常に他の悪念や力という本来ないものに心を使うことになってしまう。
つまり、心自体を物量化した唯物主義だ、これは本来の修験道ではないのだとおっしゃっております。
ワカリマシタカ?
ワッカリマセンカ?
わたし?
ワッカリマセン

そろそろエキサイトバザールに戻らなくちゃ
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