花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

一枚の写真 ⑪ 解決編

2024年12月18日 | レモン色の町

水谷百碩(ひゃくせき)氏(明治元年~昭和3年)は、北町の“大津屋(紙屋)”のご主人で、万古焼の絵付けもされていました。文化会館(訂正:四日市市立博物館様)さん発行の“知られざる四日市の面影”の四日市十二景にこんな絵があります。

三滝橋の賑わい

“三滝川夕涼”三滝橋の下で涼を楽しむ人々の風景で、髪の形から明治期ないしはそれ以前と思われます。三滝川の橋の下に屋台が二軒と、上にも三軒出ています。暑さから解放された人々が夕涼みにくつろいでいるのんびりとした風景です。

次の絵は、出口對石(たいせき)氏(明治20年~昭和28年)の作品。二見町に生まれたので夫婦岩から名前を對石とされたそうです。

三滝橋の静寂

“三滝の霽月(せいげつ)”は、三瀧橋が木造であった頃の作品で、このことから大正12年より前と考えられます。雨上がりの月夜に、三瀧橋の下に牡蠣舩が停泊しています。この牡蠣舩は何時頃にあったのか?分かるのは大正12年前後というだけです。明治期から戦前までのどこかで、牡蠣の季節である寒い時に、舩の明かりが灯されたのです。現在、“かき広”と云う牡蠣料理専門のお店が西新地にあります。そこと関係があるのか?また、尋ねてみます。

※ 昔、某料理店で聞いたことですが、“舩”は川の“ふね”で“船”は海の“ふね”だそうです。知ってましたか

コメント (1)
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