椙山 満“四日市市史研究 第5号”より
市は、ペストの蔓延を防ぐには、ネズミの根絶が急務として、殺鼠剤(さっそざい)の配布を行って、一匹2~5銭、有菌ネズミは一匹3円(今のお金で約12,000円(提出されたネズミ一匹一匹調べたのか?))という高額の賞金を出した結果、連日千匹以上のネズミが持ち込まれた。市が買い上げたネズミは、59,347匹、金額にして8,606円22銭にのぼった。今のお金に換算すると約3500万円になる。こうして大正6年春に終息を迎える。
殺鼠剤を調整する人たち
ペスト騒動の影響は大きかった。特に商工業は、休業とか販売不振におちいり、店を閉じざるを得なくなった状態が出てきた。
亜硫酸ガス発生器を使って石灰と肥料倉庫を燻蒸中
従来、四日市港を利用していた内外の船舶は、四日市港を避け、名古屋港を利用するようになり、港湾、船舶関係の労働者は休業や失業状態となって、生活が困窮するものが多数出た。また関西線四日市駅の降車客も激減した。旅館営業も成り立たなくなった。市民もほとんど家に閉じこもって外出せず、市街地は火の消えたように閑散とし淋しい風景であった。
硫化水素ガス発生器で倉庫を燻蒸中の人々
当時の飯田盛敏市長は、ペスト騒動後の再発防止や景気対策として、各方面に働きかけ、大正6年1月に“海港検疫所”を誘致した。しかし、このペスト騒動が一因となって、その後まもなく四日市港の港勢は、名古屋港に追い抜かれてしまった。
ペスト禍鎮静後にあたる大正11年の四日市港付近の地図である。当時はまだ二本の軽便鉄道(三重軌道と四日市鉄道)は、四日市駅が始発となっていて、四日市港と四日市駅中心の産業構造であった。情報も十分ではない時代、この中心地帯を襲ったぺスト禍の影響は大きなものがあったと想像できる。
海港検疫所は、旧港入り口の高砂町、浜松茂東に建つ。
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